井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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『木俣土佐守守勝武功紀年自記』なる自伝記録
——擬書の造作とその意図についての考察——
井伊達夫
〈3〉
当たり前のことであるが、往時、武士が身に帯し着用した刀剣や甲冑は、おのれの身を守るに於て最も重要な道具であった。ましてそれらの品々が主君からの拝領品となれば、最早それは主君の命代りと観念して護持すべき宝器であった。それが甲冑刀剣となれば場合によってはおのが命よりも大切な品であるはずだ。
そのような時代の背景と常識の中に生きた武夫(もののふ)たる者が、その刀剣や甲冑の作銘や威色、兜の筋、つまり間数(写真参照)を本人が誤って記憶し、筆紙に上せることなど絶対といっていいほどありえないことである。諄いようだがこれは「絶対」である。

矧筋の多い兜の高級品。この矧筋ひとつの間を一間という。因みに本品は62間筋兜と称する。数多ある兜類中でも高級品である。
「木俣武功自記」の擬書たる由縁は、それを筆にした者が本人であるというのにもかかわらず、主君光秀のもとを去るとき餞別として拝領した名刀の作者の名を変改した点にある。
おそらくこの木俣武功自記を筆した後世の子孫あるいは縁者は、本来の刀の作者の優秀希少たることを識らずに後世の講談的知見としか思えない幼稚な知識を動員し、格上げのつもりで「貞宗」としたのだろう。この一事を以て「木俣武功自記」が本人の作物ではない、贋作に近い擬作たることを筆者に決定させる決定的な証拠となってしまったのである。
敬愛すべき先祖木俣守勝の如何なるかも知らず、「正宗はいかにも名刀にして畏れ多い。正宗より格落ちとなるが拝領刀は、刀剣番付二位の貞宗ぐらいが妥当なるべし」と勝手に史実を変改造して、おのが「木俣武功自記」に登載してしまったのである。結果この自家最重要に属すべき「木俣武功自記」なる書き物はわずか以上一点の刀の無智に係る虚誕の記録によって、筆者に「擬作」であることを看破される結果となってしまったのである。
わが永年所蔵の古書を自ら擬書と審断することは、大袈裟にいえば我が子を事故で失うような気分になる。筆者が刀剣類に興味や知識を持たない一般の「歴史先生」であればよかったのだが・・・・。以上守勝が自記したかのように作為したのは、その本意がどこにあろうと、また誰がそれを作為したにせよ、瞭かに正義に反した行為であるといわねばなるまい。
守勝が実際に拝領したのは「相州住秋広」と銘する正真の在銘遺存作が非常に少い名刀の正真物である。相州とは相模国の略称で、刀剣の産地としては正宗という巨匠を世に出している名刀産出の代表的な地名である。この「相州住秋広」(脇差)拝領の刻、光秀が贈与した貴重品の数々は以下に述べるが、典拠とした『国語碑銘記』は「木俣武功自記」と比べると史料としての質の良さが遥かに優る木俣家初期の記録として重要な史料である。

国語碑銘記 木俣守長編
この書は木俣家の第四代守長が編集記録したいわゆる「木俣家代々史」で、同家の成り立ちと守長前三代迄の事跡を詳記したものであるが、他に類書をみない貴重書である。この中に木俣守勝が光秀のもとを去る時、光秀が餞別として与えたものを詳記している。下記に引用する。
光秀より餞別の緋威皆具の鎧
緋威鎧皆具、脇差秋広、猩々皮胴服、鞍置馬、大判金二枚
以上一覧しただけで餞別とはいいながら豪勢なものである。この行為は光秀の家康に対するプライドの誇示と吝嗇家、いわゆるケチん坊で通っていた家康へのおのが襟度を示した一種の虚栄ともいえるものである。光秀は当時、実は信長幕下第一の権力者であった。その教養と頭脳明晰さに於て、光秀に優る将領はいない。家康など、光秀から平生、呼び捨てにされていた(書状参考)。尚本状の釈文解説等を既稿「秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって)— 贈答事情から窺われる明智光秀の人間性—」を参照いただきたい。

相州秋広銘脇差
伝系 波多野秀治→(織田信長)→明智光秀→木俣守勝

光秀より餞別の緋威皆具の鎧
兜は六十二枚の鉄板を矧ぎ止めた六十二間の鍛えの良い鉄錆地の筋兜。前立には金の三鈷剣。これは密教信仰に来由するいわゆる降魔の剣である。胴は精美な本小札。草摺も同作で、その他袖、三具共格別の念入り作である。全体黒漆塗の中に燃えるような紅糸が鮮やかに冴える。徳川家康の家臣で一時的に明智光秀に仕えた木俣守勝が、家康のもとに帰参する際に餞別として光秀から贈られた具足である。記録の存在する明智光秀所用の具足として唯一残された貴重なものである。
以上一覧しただけで餞別とはいいながら豪勢なものである。この行為は光秀の家康に対するプライドの誇示と吝嗇家、いわゆるケチん坊で通っていた家康へのおのが襟度を示した一種の虚栄ともいえるものである。光秀は当時、実は信長幕下第一の権力者であった。その教養と頭脳明晰さに於て、光秀に優る将領はいない。家康など、光秀から平生、呼び捨てにされていた(書状参考)。尚本状の釈文解説等を既稿「秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって)— 贈答事情から窺われる明智光秀の人間性—」"懇情あふれる光秀からの手紙"を参照いただきたい。

明智光秀書状
木俣守勝は天正九年、家康のもとへ帰参したが、本品はその直後の光秀の手紙である。文中高天神落城のことや家康を呼び捨てにしている等、当時の状況や光秀の威勢が手に取るようにわかる重要な資料である。
つまり光秀は本来が家康の臣であった木俣守勝がフラッと見参に及んで来た時、一瞥して——彼守勝の本性、本来の目的を看破していた。守勝が辞去するに当って、光秀の示した暗黙のコトバは、——お前さんの役向きは存分に承知であったぞよ——というわけだ。当時としては上記のような餞別は聊か重すぎる。鄭重に過ぎる。それは上記のような理由があったからである。
はなしが慮外に及んだが、「木俣土佐武功紀年自記」が真物でないことは以上の如く贈答品名の誤記一件で証明済みとなった。因みに上記光秀贈品中甲冑と刀剣(秋広)は現存する{詳細は発表稿——秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって)}を参照されたい。