井伊美術館武具展覧歴程

 

 

 

 

平成二十七年度長期特別展

 甲冑武装の正と奇

​  ー様々なる意匠ー

 

(一) 

 その昔戦陣に臨む人々は、時代によって様々な武装をしてきた。

 戦争に着用した防具である甲冑のカタチが、我々に歴史的現実的実感を帯びて認識されるのは平安末~鎌倉前期の頃からである。

 遺された時代絵巻などをみると想像の翼がひろがり、その夢のような昔絵巻が現実性を帯びて迫ってくる。たとえば非常の戎装であった甲冑においても、当時既にフォーマルなものとカジュアルなものが存在したことがわかる。

 いってみれば大鎧の出現と定型化。その過程そのものが我国甲冑武装の「正」の典範だ。

 大鎧を「式正の鎧」と称したのもここに由来する。となると大鎧と共に、というよりそれに従属したように類生した腹巻や胴丸(共に古称)などは、後世からみればあきらかにクラシックであるが奇の方に分類される。

 「正」と「奇」とは何か。このことはまともに取り上げると、人文学的に大きな命題になって素人には手に負えない。しかしここでは鎧兜に限ったことがらゆえ、限定的な思案の範囲でごく大雑把に考えてみることにしたい。

 

(二)

 殆ど御存知の通り「正」とは文字通り正しいまともな、整ったというような字義である。転じて本式、重厚、といった意味合いになる。当然ながら「奇」はその逆となる。

 大鎧は出発点において大将またはそれに準ずる主将格、重い身分の人々が着用した制式、「正」のもので、腹巻や胴丸はそれからくらべると格落ちの家の子、郎党従士たちが用いたいわば略式、大鎧に従属する「奇」のものだった。古記に拠って諺にもなっている秘かに身に着籠めた「衣の下の鎧」というのはこの腹巻や胴丸あるいは腹当の類をさす。

 ところが、時代が変って戦国(正しくは末期)以降、軽便な当世具足(略して一般に具足という)というものが開発され流行すると、具足が戎装の主体となり、腹巻や胴丸はより儀典的、身分象徴的着具へと昇格された。つまり「正」格となったわけで、これは時代とそれに伴う戦法の変化によるものだ。更に安土桃山時代に入ると具足の細部、特に兜の形式において革命的な変化が発生した。いわゆる変り兜の出現である。この事件ともいうべき変化の意匠の創出によって、一時的に「当世の心易きよろひ」、つまりカジュアルな普段着のヨロイとして「奇」の位置にあった具足は、変り兜を具さぬ普遍的な筋や星を打った兜を具えている限り正統的なものとして扱われ、異様な形象の兜を戴いた具足は、その兜の形態によって「奇」と看做されるようになった。

有力武人の墓の改葬に際しては、どうやら発掘された遺骨と共に兜鉢だけをとり出して子孫が神宝あるいは魂代(たましろ)として祀るか、家の重代ものとして再利用することがあったようである。兜は甲冑構成の主体として着用本人のまさに象徴だった。ちなみに京都法住寺殿趾からの発掘大鎧残欠等はここでは精説しないが、そのことを示唆、思惟させる重要なヒントのひとつと思われる。

 

(三)

 つまりここで右様のことをいったのは、兜とはそれ程もののふにとって重要な位置を占めるものであったということだ。その主体物である兜の形に大きな変化、それも今迄のような型にはまらない個性的な変容が生じたということは、我国の甲冑沿革史上というより、日本人の精神形成の上において大きく採り上げられるべきことがらだと思える。

 往古、大鎧に附属した厳星兜はその後星が矮小化したり、単なる筋兜に移行して行っても、兜鉢の形そのものは変容することはなかった。根本は頭のカタチに則って造られ、そこから離れることはなかった。

 ところが十六世紀後半になって、前記のごとく俄に兜鉢に大小の異態の細工を施したいわゆる変り兜の出現をみた。

 これは一体どういうことなのか。

 これはまず大きくいって、日本人が戦国という破壊無常の乱世をみて、古い権威や秩序の儚さを肌に沁みて知った。堅牢で絶対的であるべき体制組織など、実は一場の夢であった。これに気付いた時、集団依存の心理は個人自立の自覚へと大きく変換された。

 下剋上という固定された身分制の崩壊は、それを主導ないし助動する大勢(たいせい)にとっては個人的な利己主義を促す。内省は軽んじられ、一にも二にも即行動である。重厚な旧物旧態の尊重は一種の悪であり、短絡的な軽薄新奇は斬新で善なるものとなった。

 サムライに限らず日本人一般の精神そのものが重いコートを脱ぎすてなければならない軽装の時節到来を悟ったというわけである。

 甲冑風俗における変り兜の出現はまさにここに至って必然であったことがわかる。

 更にこれに鉄砲伝来に代表されるキリスト教を背景にした南蛮文化が強烈な追い風となった。

 日本人の精神風土に土着した仏教と儒教では変ることのなかった

 

 

 

 

 

平成二十六年度長期特別展

 Red Armor
  —赤き兵(つわもの)どもの栄光—

 古来から赤の色は吉祥繁栄のシンボルカラーとされてきました。武士のはじまりといわれる平氏が旗幟に赤色を用いたのもその典型的なあらわれです。 更に「赤」は降魔、除災、避難、等あらゆる凶事に対抗する吉慶色として強力な働きをするようになり、戦国の勇士はこれを自己の顕示と守護の色として用いるようになったのです。 赤装甲冑―いわゆる赤具足―は勇武と栄進のシンボル。矢玉の中を臆せず、ひたすら前進する者にのみ許された栄誉のシンボルカラーだったです。 この至極目立つ色柄の鎧を着用する者は、ある意味、一歩でも退いたら「さむらい」を捨てるほどの覚悟がなければならなかった―「ひたすらの男道」を貫くための矜持です。桃山の華やかな色合いの裏には、義務的に課せられた死に狂いの実相があったわけです。 見せかけの奉平に安座し「乱」の時代を忘れ去った我々はかつての勇士の人生の「仕舞口」の覚悟を一度直視してみるのも大切ではないでしょうか。 一息截断(いっそくせつだん)を身命に秘め、表面はあくまで洒々落々の日々に韜晦した桃山の武将前田慶次郎の朱具足(泉鏡花旧蔵、石川県博出展以来18年ぶりの公開)をはじめ、北条氏ゆかりの朱具足、そしてご存知井伊家藩主の朱具足など、限られたスペースですが赤鎧を満杯にしてみました。常設部ではオールドスタイルの大鎧を、そして時代の比較のため金色絢爛の南蛮胴具足も合わせて展示します。

​ H26.1

 

 

 

 

 

平成二十五年度長期特別展

 戦国往来物語

「凄い奴ら」のいでたち

 

 戦国乱世は中世が終焉して新しい時代の幕明けを迎えるための、生みの苦しみの時代といえます。形骸化した名跡だけの「室町幕府の時代」という閉塞を打ち破るには大きな破壊のエネルギーをもった、自然行為的な、無惨の夥しい血が必要でした。残酷無惨の無常に常住し、そこから跳躍することによって人々はおのれの「個」なるものの自覚にめざめていったのです。つまり、中世的骨化が進んでしまった社会を厭って変革をめざしたのは、「個の生き方」を選んだ近世のくにた(、、、)み(、)(国民)であったということになります。勿論当時の彼等にとって後世の年表的時代的区分はさして意味のないことですが…。
 そんな士民たちの思潮の大きな流れに乗ってあらわれるのが、北条早雲や斉藤道三、そして信長、秀吉といった梟雄、英雄たちです。このような大変革の空気が全てのものを新しく変えてゆきました。日本史上最も雄大な人間革命の時代であったわけです。
 それが甲冑武具の形式の上にも明確な変容をもたらしました。故実形式を重んじた大鎧や胴丸、腹巻といった前時代の遺物的甲冑は鉄砲が参入した新時代の戦争には適応できなくなりました。
その結果、一部高級武将達のためのいわば儀礼的式服として存在だけは遺されたものの、その主役の座は軽便合理的な「具足」というものに譲らざるを得なくなったのです。
具足―ふつうはそう呼ばれますが、正しくは「当世具足」と名称します。「まさに用うべき現代のヨロイ」というような意味です。その一具として最も重要視される兜には、いろいろな意匠が用いられるようになりました。
 従来の大鎧や胴丸等に附属した兜は、あく迄円形の兜鉢に首頚部を防禦するシコロが附属した比較的単純な姿形でした。兜鉢の矧板の止め鋲である星を装飾化した星兜か、星鋲を潰した筋兜が基本で、装飾物も鍬形や魅(しかみ)といったシンプルな単一形のものにとどまっていました。
ところが、戦国時代に入ると、兜の常識は大きく変りました。極端にいえば、あく迄極論ですが、従来型の星兜・筋兜はすたれて、いろいろな形態をしたいわゆる変わり兜がたくさん生まれて来たのです。その意匠は自然界の動植物から日常の器物、はては神仏をあしらったもの迄極めて多岐多様にわたります。
 これは「個」の自覚とその自覚において生死(しょうじ)に目覚めた侍たちが、おのれを自他共に認証させるため、最後の象徴として育んだもの、いわばいのちをかけた商標登録だったのです。これほどわかりやすい自己顕示と存在証明はないでしょう。
 さて、さまざまなる意匠に富んだ奇想の兜を数多く生んだ「戦国」という時代は、凄惨の血の臭いや、陰惨な痕跡が歳月によって消されると、平和人の都合のいい誤解によって豪快と奔放なカッコいい「おとこの時代」と認識されるようになりました。たしかに江戸時代という再びの固定化時代を迎えると、変わり兜は甲冑の世界から姿を消してしまうのですから、たしかにあの時代は実に思い切りのよい、男ぶりのよい武士(もののふ)が、思うざまに天下を往来した時代だったともいえます。

 私は兼々彼らを「凄い奴等」だと思って来、また語ってきました。その生を大事に、死を大事に、一日を今生とした死生一如の気概、この熱い激しい息吹を少しでも皆さんに窺ってもらえたらと思います。「戦国展」はこれ迄の来館者に最も人気のある催しで、今回はそういった戦国ファンにお応えするリクエスト企画展でもあります。お楽しみ下さい。

 

 

 

 

 

平成二十四年度長期特別展

人間

 井伊直弼

  生涯の実像

 井伊直弼のこれ迄の評価はいってみれば極端です。「偉人」か「国賊」か、「先見性に富んだ決断の人」か「単なる保守反動家」か。そのレッテルはおよそ単純、単色であるといった方が近い。直弼について語る場合いろいろ説明や、つけたりを要するけれども、まずは天才でも偉人でもない「普通の人間」であったというところに、人物観照の基軸をおく必要があるのではないでしょうか。かれの生涯と行蔵を分析検討するのはそれからのことのようです。

 これ迄直弼の資料や伝記類は一通りみてきたつもりですが、おおむね史料の羅列はふんだんにあっても、人間が立ち上がってこないものが多いのはなぜでしょう。直弼自身の体臭を感じるものがない。単なる史料集とは異る伝記類にはその人物の息遣いが出てこないといけないと思うのです。いかがなものか。このこと容易でないことは承知の上でいっています。

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 直弼を主人公にして有名になった小説に舟橋聖一の『花の生涯』があります。物語は直弼の悲劇の人生を桜花の散るが如くに描くことによって、ひとつの仮想の花を咲かせました。しかしそこには真の花はない。これは小説だから当然でもありましょうが―しかし特別にすぐれた小説は史実よりもより一層その人間をきわだたせ明晰に写し出す。虚構が真実を超える場合もあることを忘れてはいけないと思います―、直弼の生涯の実像をあたかもそのごとくに描いたものは小説は勿論史伝類にもないと思えるのです。

 左様なことをいいながらかくいう私も、直弼を考えて数十年もたつのに伝記には一歩も踏み出せないでいます。直弼についての書きものは過去にいくらかものしてはいるものの、片々寥々たるものです。そんな者が一人前の口舌を弄す資格はない。内心の正直なところはそうであり、また同時に忸怩たる思い大であります。

 日まさに西山に没せんとして、日々徒らに焦るのみのこの頃、せめて聊かでも直弼の実像を知りたい。知ってもらいたい。また、少しでもなまみの直弼について考えてみたい。従来ともすれば極端に偉人化あるいは悪人視された直弼像の本格的見直しの契機、考え直す動機が萌せばいいという位の気持ちが正直なところです。この累年の思いをささやかながら、とりあえず小展を以て心中の冀願、寸分を果しておきたいと思います。ここでは虎を描こうと思ってはいません。結果が猫に類しても構わない。おのれのつとめの少しでも果せればいいという存念です。

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 直弼は日米条約を無勅許で強行し、反対派を弾圧、大獄とよばれる大量の血を流しました。前者については徳川の屋台骨が緩み、内外多端に際し幕政のトップにあるものとして不逞の徒に鉄鎚を下した。その行為は正義の実行であると信じたかったと思います。後者については決して直弼の本意ではない。政治的処置の道筋に厳然とした信念が、急流中の巖石の如き不動の覚悟が、絶対的に懐かれていたかとなるとむずかしいところです。条約締結の時、近臣に手ぬかりを指摘され、責任の重大さにおろおろし、この上は大老を辞任せねばというのを側近に叱咤されて立ち直る―こんな姿は従前の歴史では判明していなかった事実であり、実の処事情あって公にしなかった、否できなかったことです。そのディテールは長くなるので端折りますが、要するに本当のところは人一倍責任感の強い正義の人でした。それだけに小心翼々で、大胆不敵、剛毅からは程遠い気性、開国も外圧に対するやむ事なき処置であり、真の肚裏は富国強兵ののち、再び祖法に国を戻すというのが実現の可能性迄は詮索しない上での本音でした。当時、反対派である越前の橋本左内あたりは朝鮮、満州、モンゴルを植民地化し、アメリカあたりにも領土をもたねば日本の独立は覚束ないと云っている時代です。攘夷の実行不可能を体感しつつも攘夷派であり、開明進取の人ではありませんでした。

 若い時には恋に悩み、養子試験には落ち、国学や好きな芸道には一途ながら身の短才を歎き、一族富裕の徒輩を羨み、かつ、嘲笑し、常に冷え症と頭痛その他の痼疾を抱えて、貧乏暮らしを喞つ。何やかや嫉妬し立腹し、世外にいて身静かならんと欲せども、好きな柳のようにしなやかには順応できずイライラし、もうどうしようもない―という境遇でした。運命はしかしそんな直弼に想像もつかない逆転の栄光の座を用意していたのです。

実に天なり、命なりだと思われますが、殆ど古衣ばかり着て豆腐一丁の値段まで通じているような人物が大藩の主となると、公私における反動が大変どころでないことは容易に想像されます。普通の人でなくなったのです。あとは格式と先例と、すぐれて有能だが同時に実に有害な側近に取り囲まれて、「大老」という大看板を背負わされのっぴきならぬ舞台に立たされてしまうことになってゆく。直弼は本音では茶や歌や土をひねって生きて行きたかったにちがいありません。政治の泥沼に踏みこんで喘いでいる直弼の姿が夜半の夢にあらわれたりするのは辛いものです。

 大略して直弼は芸術家としてはともかく一流でした。しかし政治家としては純粋朴直にすぎた。まさかおのれの首が人にとられるとは―。これもまた天命といえばそれまででしょうが、その直前の心理は恐怖と戦慄という言葉ではあらわせられないものであった筈です。直弼もまた人の子であり、ふつうの人間でした。根本は我々と変らない普通の人間であったと、まずはそういうところからはじめたいと思います。

 

 H24.1 

 

 

 

 

 

平成二十三年度長期特別展

戦国

凄惨を生死(しょうじ)した猛者たち

戦国 ― その時代という化性 ―

 近頃は歴史ブーム、それも戦国時代が人気である。特に女性ファンが多い。称して「歴女」というらしい。「歴女」などというコトバはいかにも俄か作りで、どこか軽薄である。好きな用語ではないが、マスメディアの時代に照応するスピーディーな時代語のひとつ。やがては消えるであろう。そんなことはまずどうでもいい。
 いわゆる歴女がふえたのは、短絡的にいってしまえば男が頼りなくなったからである。この種今時の男性を「草食系」というらしい。これは歴女よりずっと意を得た造語であるが、たしかに現代の日本には歯牙をしっかりもった男衆が少なくなったとつくづく感じる。「時代」のもたらした頽廃の典型である。
 では「時代」とは何だろう。それは得体の知れぬ「化性」だ。人類のある限り、永久に代を累ねるどうにもならないバケモノである。 
 そのバケモノの手の中でテキトーに動かされるのがつまり他ならぬ人間である。主役と思っていた筈の者が脇役になり、数の内にも入らなかった端役がいつの間にか主役になっている。全て「時代」サマのキャスティングである。
 さて、「戦国」という時代である。教科書的には応仁の乱勃発から、信長が足利義昭を奉じて上洛する迄のおよそ百年間を規定しているが、「時代」はそんな明瞭なものではない。戦国はもっと早く萌しているし、足利義昭以後も戦国は続いている。鎌倉の末から南北朝にかけての争乱が収拾し、室町の世の中が定着固定化してくると時代は屏息し、退屈する。人心常ならず。法度あってなきが如く。晨の紅頭は夕べをみずして白骨となる―
 いわば定期的に、こうならないと時代サマの退屈はおさまらぬようにできている。戦国時代の到来である。
 戦国を演出した「時代」は人々に明日という日を信じられないようにした。信じられるものは、いま、即今、現在のその一瞬―だけである。主従は勿論親兄弟も何も信じられない、信じたらおのれが終りである。生きるためには男も女もえげつない魂が要った。時代は戦国に加虐と被虐を要求し、信長、秀吉、家康それぞれの彷徨跳梁、七転八倒などを見て漸く満足した。その間輩出したとんでもない奴輩、無茶苦茶な奴等に後代の幸福な我々は魅力を感じヒーローをつくる。江戸三百年の泰平の延長線上に胡坐をかいていられるからだ。戦国の時代という舞台に立って狂瀾の中で本番を演じてきた必死の役者たちがそう思う現代人をみたら心底怒るだろう。汝等(うぬら)には半日もこの舞台はつとまらぬワイ、と。
 日清、日露、太平洋戦争が、実は戦国であったことを噛みしめないと、やがて再び地獄の戦国がくる。温故知新である。戦国は恐ろしいのだ。歴史を知らないと再び真物の恐怖に襲われる。そこにはいわゆる歴女の抱くような夢やロマンはない。まさしく地獄なのである。
 そうなのだ。「時代」サマの本当の退屈はもう始まっている。何もかもが濁り、くずれはじめているのだ。その音が聞こえる人にのみ「戦国」の真実がわかるだろう。
 このように考えてくると戦国を生きぬいた兜や刀を美術品などというなまやさしいコトバで呼んではいけないことがわかるだろう。それはとんでもない無茶苦茶を心ならずも演じた時代のやつらの魂の依代だったから。

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平成二十二年度長期特別展

乱世創業 井伊家の三代

直政・直継・直孝

 いわゆる「江戸三百年」を通じて、一度の国替えもなく、肥沃の地江州彦根に居城し、たびたび幕閣の大老に任じた譜代筆頭の雄藩井伊家。この家の繁栄のもとをひらいたのは井伊直政でした。直政は関ヶ原戦後、褒賞として、敵将石田三成の居城佐和山を賜り、上州高崎より転封されましたが、関ヶ原での銃創が再発、目指していた彦根山築城も机上のプランのまま四十二才を一期として世を去りました。この直政の果し得なかった夢、彦根の新城を完成(第一期)させたのが彦根井伊家第二代の藩主となった嫡子の直継でした。

直継は多病だったといわれていますが、実は病者ではなく、大変温雅な生まれつきの人物で、その性格が乱世の将にむいていないため、表向き病気を理由に彦根藩主の地位から退隠(安中三万石)させられたのです。しかしこの直継の時代、城郭と城下町も創成され、のちの彦根藩政の基盤となるさまざまの法政的な事項が作られました。「彦根創業」という意味では実質的にこの直継を初代藩主の位置にすえなければならないでしょう。

三代藩主の座についたのは直継の庶弟直孝です。直孝は大坂両陣に大活躍をし、更に重要なのは家康が最も希望しながら、明らかな声をもって命令し得なかった豊臣秀頼とその母淀の方の亡滅を独断専行したことです。言外に意のある処を察知し、迅速に行動処断した直孝の決断力を家康は高く評価しました。その直孝に与えられた果実が彦根藩主の地位であり、大きく言ってしまえばその後度々重ねられた加増の全てと幕府における「天下老翁」の地位です。その間彦根城も第二期工事を終えて完成、城下町も大きく繁栄しました。士庶統制の法度も前代の綱領を基本にその大概がこの直孝の時代に整備されました。

直孝の時代は彦根藩磐石の地位を確定した井伊家の黄金期といっていい全盛時代でした。このあとの井伊家には名君功臣多々輩出しますがいずれもこの三代の恩禄と栄光に与るところが大きいのです。いずれにしても徳川家康の天下取りと殆ど時を同じくして幕府創世のため尽悴奉仕した井伊家の初政三代、直政、直継、直孝。この時代を一度ふりかえることは単に井伊家を懐古するだけでなく「江戸三百年」というものを考える上でも重要なヒントになるのではないかと思われます。今年はこの三代の武具を中心に関係資料を特集してみました。

 H22.1

 

 

(井伊家の歴代は史実に従って正しい代数をもって表記しています。)

直政・直継・直孝(小論)

 

一、    はじめに

 井伊家中興初代の直政が徳川家康四天王の一人であり、幕府の元勲であったことは多少歴史に明るい人なら皆知っている。ところが三代直孝は父直政に勝るとも劣らぬ人傑であって、これまた幕府の大立物であったにかかわらず余り世人に識られていない。二代の直継に至ってはまだ誰も取り上げた人はいない。「井伊」といえば「直弼」そして「大老」と、この三つ組の名ばかりが口端にのぼるばかりで、肝腎の家の創業に与った直政、直継、直孝は亡却の彼方に没しているといっても言いすぎではない。筆者は以前からこのことをすこぶる遺憾に思ってきた。井伊直政のような豪傑(このコトバが現代簡単につかわれるようになったが、一般のごとき軽い意味ではない)の本格的な伝記がはばかりながら井伊のものしか存しないというのもあく迄―本格的な―という意味で(『井伊軍志―井伊直政と赤甲軍団』)淋しい限りである。今回この三代をとりあげたのはその思いのいくらかをはらし、世の歴史や武具愛好家にかれらのことを聊かでも知ってもらいたいがためである。見者よろしくこの微衷を汲み取っていただければ有難い。

 

二、井伊直政

 井伊直政は天正三年のはじめ十五才で家康に見出された。恰も長篠合戦直前の時期である。のちに徳川四天王と称される他の三人(本多・酒井・榊原)は既に戦時の履歴堂々とした大先輩。直政は奉公の当初からかれら三人の衆をライバルとみなし、かれらに勝ち抜くことを目指した。直政は家康側近の将としてはむろん、主だった将士中においても新参者であった。それがわずかの間に先輩諸士を抜き、ついには徳川四天王の筆頭、禄高も家臣中第一となったのはなぜだろうか。

 余りに出世のスピードが早いので、後世主君家康の寵男説まで裏面では根強くささやかれることになるが、奉公の始終を考えると事実とは考えにくい。

 むろん、堂々たる体躯の極めて爽やかな武辺者であったから、そのような風評が生まれたのも不思議はない。直政が家康臣僚中、抜群の地位に昇り得た理由は、むろん戦場での剽悍無比な自身働きによる功名や忠実性にもあったが、その第一の理由は卓越した政治力にあった。ゆらい家康の幕下には、犬馬の労を惜しまず刀槍の働きに忠勤をつくす者には事欠かなかったが、広い視野をもつ政治性に富んだ武将には恵まれていなかった。直政自身そのことは秘かに気付いていたにちがいない。

 家康が東海の一大名から関東大名、更に天下をのぞむにいたる権力膨張の過程において最も必要としたのは政治というものがわかる優れた家臣であった。家康が三河を統一し、更に大きく飛躍しようとしたまさにその時、直政は出現した。主従の出会いは運命の序列といってしまえばそれまでであるが、まるで出来のよい芝居をみるようで実にタイミングが良かった。

 ここでその直政の卓越した政治性について例をあげて説明する余裕はないが、その能力を一言以て象徴した戦国有数の智将、小早川隆景の直政評をあげておこう。

 

    小身ナレドモ天下ノ政道相成ルベキ器量アリ

 

おしいことにしかし、直政には一つの大きな欠点があった。身心共に健常かつ偉大な男であったが、根本に武家の名門としての貴種意識が強かったから、下々への配慮、家来に対する情愛に欠けていたことである。

 これで多くの家来を失った。無用の殺生にちかい殺戮もおそらく数えればきりがないだろう。上州の箕輪や高崎城主の時代、家来たちは毎朝出仕のとき、家族と水盃を交して登城したという。

直政の生涯は公私とも血にまみれていた。戦場でも、平時でも「人斬り」「赤鬼」という異称は掛値のないところで、他からみればまことに鬼の申し子、恐怖の典型のような武将であった。しかし徳川の覇権を決定化する上には直政のこの公私にわたる性格上の長所短所が適所にうまく配合され有効に働いたといえる。直政にとって最後の戦場となった関ヶ原では軍政共に天下分け目の主役にふさわしい指導的役割を果した。関ヶ原での名誉の傷が再発し四十二才の生涯を終ったことはまことに惜しまれるが、実のところ余り合性ではなかった秀忠の実権政治の頃まで生きず、家康の存命の間に、世を去ったのは、やや早すぎるとはいうもののその死は直政にとってある意味幸せであったかも知れない。

 

三、井伊直継

 井伊直継(のちの直勝)は直政の嫡男である。父の幼名万千代、通称兵部少輔を継ぎ、のち右近大夫といった(井伊家の嫡流はこの直継の系統でありのち越後与板藩、維新後井伊子爵家となる)。父直政が死んだ慶長七年十三歳で遺領を継ぎ、元和元年二月多病を理由に弟直孝に跡を譲るまで前後十四年間彦根の藩主であった。つまり彦根井伊家の歴とした第二代であるが、藩政期を通じなお現代まで彦根側の大抵の史書は直継を代数に入れていない。筆者は匆に直継の治世の年数を無視して来た彦根藩史の謬見を指摘してきたが、この史実の改竄的行為の裏には彦根井伊家中における御用史家たちの隠微な故意的作為が継続して行われて来た事実を感じさせる。いずれにせよ「井伊直継彦根藩第二世」は動かすことの出来ぬ史実であり、直継やかれについて奮励し苦労して上州安中へ移り去っていった家臣たちの為にもこのことは何度明記してもくどすぎることはない(現今彦根における井伊家歴代の表現もやがては訂正されると思うが、かつて関係者に問うたところでは、代数表記を訂す場合、たとえば彦根城の案内標記を書き直すだけでも大分な経費がかかって大変なのです云々、とかいうことを聞かされた。尤もなことだがまことに下世話になる)。

 さて、直継であるが、この人は実に温順な人柄の人物であったらしい。このことは要するに乱国の将としては不向きであったということになる。乱世の将たるものは血と暴力の中にまみれ、決断から決断へと跳び渉ってゆく果断の勇略を必要とする。直継は温雅の中に優遊するタイプの人物であった。これが徳川中期の藩主の立場であったら、直継は井伊家名君中の数に入ったかも知れない。いかんせん、時代は風雲のさなか、主将は象徴的な紳士では立ち得なかった。家臣に率先して刀槍の巷に身を置く強悍な獣性が必要であった。直継には自己の性がよくわかっていたにちがいない。はなから戦場闘争の世界から身を退いていた。弟の直孝の英勲に隠れて、後世史家の評価の埒外におかれているが、改めて彦根初政、二代直継としての治世を見直す必要があると思われる。簡単に総括すれば、直継は徳川幕府草創期において、公儀にただ一筋忠勤を励み、大過なく実直にその生を全うした武将だったといえるだろう。病弱といいながらその実弟の直孝より長生きし、自然のままの如くに世を去った。寛文二年七十二才である。

 

四、井伊直孝

 直孝は直政の庶子として生まれたが実は兄直継と同年である。父直政ほどではないが、誕生のはじめからその境遇は不安不遇の日々であった。しかし本人は一向に平気で幼い頃から超腕白、かつ将としての才があったことは伝えられる逸話から十分推測できる。栴檀は双葉よりである。この我儘放縦の日々が、将来の直孝の大器を養ったのである。

 直孝に対する父の認知は一説では母親の死を賭してなされたという。

 父直政の没したあくる慶長八年、十四才で家康に召出され、秀忠に仕えることになった。これは老臣木俣守勝の推挽による。沈毅果断の性格は早くから衆の認めるところであり、二十一歳、大番頭、一万石の大名の班に列しそれ迄の通称掃部助を掃部頭に改めた。彦根井伊家歴代の通称掃部頭のはじまりである。

 直孝がその身の大出世を約束されたのは、大坂両陣における戦功であった。冬の陣では先手隊将木俣守安による真田丸抜駆けを黙許、逆に家康からその臨機応変の采配ぶりを賞誉された。夏の陣では若江堤に木村重成を討ち、大坂落城に際しては助命を乞う使者の往返に顧慮するところなく秀頼とその母を処断した。このような一大事の決定は経験少ない若将のなすべき術ではないが、直孝はおのれの一身はもとより「井伊」の家の存亡をかけてこの大事を截断実行したのである。「有事断然」は直孝の生涯、朝夕はむろん夢寐にも忘れることのなかったモットーであった。間違えば「腹ひとつ掻ききればよい」。(後年島原の乱で「不惜身命」の旗をかざして功をあげた石谷十蔵貞清の精神はかれの心師ともいうべき直孝の精神を承けついだものである)。

 豊臣家の完全な亡滅は家康の真の肚裏にあったもので、それを言外に悟って実行して直孝は大きく認識評価された。直孝がその後次々と加禄され三十一万石の身代となり、位階が後の井伊家の極官となる正四位上左近衛中将にまでのぼったのもこの時の殊功に因を発するところが大きい。その後幕政の中枢にあって政務をみること多大になった直孝は寛永十一年四十五才の時参府して以後国に帰ることは許されなかった。家康に見出され、秀忠附臣僚として幕臣のスタートを切った直孝は、以降家光、家綱に歴仕、幕府の大元老として内外に重んじられた。その死は万治二年夏、七十歳であった。

 

五、まとめにかえて

 井伊家の初政三代を考えるとき、これ迄等閑視されてきた直継の物理的な存在ないし位置に注目させられる。もし直継が父直政と弟直孝の間に生まれていなかったら井伊家はいかなる展開をみせたか。幕府創成の期に当って能動的になるところ少なかった。つまり積極的な奉公の気合いを生まれつきもってこなかった直継が存在したことは父にとっても弟にとっても倖いなことではなかったか。直政と直孝父子はかなり相似たキャラクターをもっている。「智」「勇」「武」「剛」「侠」「直」の面はむしろ暴に近い程相通じる。直孝が父に不足の面は「学」であり、直政が子に一日の長をあえて許さなければならぬとすれば「慮」の部分であろうか。この二人が父子とはいえ、相密接していれば性格が近似しているだけにかなりの摩擦熱を発したであろうことは想像にかたくない。勿論、両者の接触は短いからその仮定上の心配は採るに値せぬかも知れぬが相似た者が一旦衝突すると修復がむずかしい。そして年齢に距りある大名父子となると厄介である。このことは古今の史乗にあきらかである(直孝自身後年嫡子直滋と隙を生じ、直滋は結果廃嫡され悲劇的生涯を終えている。その原因は直滋の頴敏にすぎた性格の危うさであった)。

 右のことは閑却するとして、もうひとつ、直政は家康臣従中後進末輩ながら破格の出世をし、第一等の格禄を得た。もとより、その功は衆の認めるところであるけれども、嫉み妬く者がいなかったわけではない。それを継ぐ者がこれ又大功をあげ、栄辱を得ることになると世間はただではすませない。奸者はどこにでもいる。いらざることばの数々が主君(将軍)の耳に届く。

「功烈主を震わす者は殆(あやう)し」という。

 二代も超一級の人物が出ることはその家にとって凶兆である。温雅な直継の存在、先陣をきらない指導者のキャラクターは井伊家にとっては幸いであった。直孝の働きを野球でたとえれば四対三と勝ってはいるが九回表の二アウト満塁。本来なら打者が直政であるべき好機の打順に直継が立たなければならなくなった。徳川チーム主将家康の年齢を考えれば、ここはダメ押しの得点をあげて完全リードの形をもって勝利すべきところだから凡退は許されない。どうみても打てそうもない直継は替えなければならぬ。そこでピンチヒッターに立ったのが直孝である。直孝は見事満塁ホームランを打った。直孝は徳川チームの勝利に決定的な打点をあげたわけである。

 妙な例えだが彦根城主井伊家は直継という泰平期むきの後継者が直政のあとに立ったおかげの偶然で、勇武と勲功にあこがれまたその分だけ嫉みそねむ衆の心を逸らすことに成功した。直継は乱国にはむかぬ。そして直孝が代りに立ったのは運命であり天道の自然であると人々はみなしたわけである。そう考えると直継はのちの井伊家の繁栄のためには重要な力学的平衡を保つショックアブソーバーの働きをした重要な存在であったことがわかる。直継によって栄進し続ける井伊家への羨望と嫉視は一旦逸らされ、先にも書いたごとく直孝の後継は理に合う納得できるものとされたのである。

 ともあれ井伊家は以上の三代で幕府での盤石の地位を築いたが、その陰ではたくさんの血が流されている。屍山血河の中から立ち上がった者は、何も井伊家に限ったことではない。江戸三百大名の全てはそうであったといっても過言ではないが、中でも井伊氏は乱世から昇平期に徳川政権の中枢にあって、歴史のいわば転換器のキイを握ってきた。血震いして先陣をきってきた直政直孝の足もとにあるのは、夥しい血溜りである。「厭離穢土欣求浄土」の旗印の下の正義である。無惨であるが勝者の必然であって、形は変っても現代においても内実は同様であることを忘れてはならない。

井伊家の歴史を振り返るとき、まず感じさられるのはこの血腥さである。そしてこの血の臭いは消えることなく幕末へと跡を曳いてゆく。これは徳川筆頭の将、「藩屏の家」である井伊氏の宿命であろうか。

 

 H22.1

 

 

 

 

平成二十一年度長期特別展

武士(もののふ)(つわもの)の時代

-合戦刀戟の証人たち-

 いまはいい時代です。切腹もなければ本当に首を斬られることもない。これは古い時代の最期の人間の責任のとり方です。いまはそれがない。だから極端にいえば何事もいい加減なところでカタがつく。「おのこ」も「おみな」の上に立って、「おみな」の分まで責任を負う必要がない。「男女平等」です。 

こういう世の中になると、まことの「おのこ」は育たない。 

 

 ところで、「もののふ(武士)」と「つわもの(兵)」ということばです。両方とも武士とか軍人という意味があって大まかにいえば同義のことばですが、「もののふ―物の夫」が人間である武士をさす単純な用語であるのに対し、「つわもの」は武人をさすと同時に「兵」つまり武器武具―兵具―を意味して使われることがあります。本展の場合、「武士」、「兵」の意味の使いようなどは厳密に考えてもらう必要はありません。少し用語の解説をしただけです。 さて、先にも書いた通り、近頃は「もののふ」「つわもの」の男社会がなくなって久しい気がします。「男」というものが、なべて弱く温和しく、家畜化してしまった。優しいだけが男ではない。これは勿論、容姿や言語動作をいっているのではない。要は精神の中身です。どこかに馴致(じゅんち)されない、猛々しさを秘めた野生が欲しい。本来の、もののふとか、つわものという者共はそうであった筈です。

 

 私の住まいの近くに甘党で有名な喫茶店があります。日曜祭日になると長蛇の列。それはいいとして、その列の中でカップルの片われである男が同じように一時間も二時間も道の端に立って温和しく順番を待つ。これは腰抜け腑抜けにちかい。他にすることはないのであろうか。日本は半分以上滅んでいる―と私が考えるのは余りにも飛躍した危険思想であろうか。


 合戦が日常茶飯の時代、刀や槍に携わる人間は、ことあるごとに自身の形骸を抛捨し、敵刃をもっておのが身を削らせる覚悟を決めたものです。もとよりおのれの肉を削らせた以上、対手は必ず斃す。

  日々に死し、日々に生きる。今こそわれら「男」は、先人たちの大死一番の日常に学ぶ必要があると思います。

 暖衣飽食、一人では何も出来ない時代遅れのおいぼれが、ひたすら戦国乱世のもののふ・つわものどもに憧れている。勝手なものである。いい気なものだと思いますが、これもマアいわば「残躯天ノ赦ストコロ」です。左様なわけで、サムライたちの命の品々を並べてみました。ともかく今年も御笑覧あれ。

 H21.1

 

 

 

 

 

平成二十年度長期特別展

大名家伝来の

 武器と道具

これまでの特別展では、武家の表道具である刀や鎧―つまり武具の展示が中心でした。十年間この主義を貫いてきたのは本館の旧称「甲刀修史館」の名に因むところが多かったからです。このたびは少し様子を更え、いわゆる奥道具及びそれに類する大名家の遺品もまじえて一座をまとめてみました。凶器である武具をハレの表道具とし、平楽の器物をケの普段道具とする。そしてこれを渾然一和せしめたものが、武家社会の代表である大名文化であったということがいえるかと思います。但、大名物といっても大藩の遺物は後代修補の手が入って状態が良好すぎ、生活感を喪失しているものが殆どです。たとえば井伊家藩主所用兜の飾りである大天衝や毛頭など、明治期の後補品であることを知る人はいないでしょう。当館ではその点に留意して手摺れのある道具遺品を採集し、できるだけ「貴人も人也」の常感覚を再生することに勉めてみました。

 H20.1

 

 

 

 

 

平成十九年度長期特別展

戦国の龍虎

上杉と武田

上杉謙信と武田信玄。少し玄(くろ)い日本史ミーハーの好きな代表的人物というと、いささか意地悪い表現ですが言い得て妙、かくいうそれがしも謙信・信玄=六対四のファンです。日本中世の終り、結びの一番に土俵に上った名横綱二人―といえばどうですか。これもまたピタリの表現でしょう。手前ミソですが。名人互いに譲らず、張合っている内に時は無情に迅遷して、生には老が、病には死が迫って天下の土俵から心ならずも姿を消さざるを得なくなる。やがて彼等が眼中にも入れていなかった信長・秀吉という新時代のヒーローが台頭してくるという按配です。

 しかし謙信や信玄は、抽象的表現ながら、日本中世史に有終の美を飾り、後進の士将たちに「もののふの亀鑑」という引出物を与え、花道を大見栄切って去ることができたサムライ中のサムライ、幸運な弓取りでした。

 以後上杉と武田の声名は武士にとって超一流のブランドとなりました。それが証拠に、戦乱が収まった徳川の世になってから、浪人たちが拙者は謙信公が青竹の指揮杖に従い申した、とかそれがしは故信玄公の声を聞いた覚えの者でござる―といえば案外にトライアウトが容易であったという事実です。彦根の井伊家にも信玄の下川中島を戦った勇将の子と名乗ってうまく仕官しおおせた侍がいましたが、川中島時代を生きて、その勇将を知っていた婆さんがいたものだから嘘がバレて追放されたというハナシがあります。上杉・武田の旧縁を語ることは、当時の新興大名の家々に対して極めて有効な再就職の為のゴールドカードでした。

 わが井伊家中興の祖直政は、家康によって最も多くの武田遺臣群を召抱えた大名です。そうでありながら直政は信玄は余り好きでなく、謙信を尊崇していました。玄妙な戦略家より、純粋にして無私に近い戦術家、時に戦術をも無視する毘沙門の権化に憧れたのでしょう。孫子の兵略の抄言である「風林火山」は信玄の戦法を語る時の代表標語となっていますが、何も信玄一人の専売にすることはない。謙信や信長や秀吉など時代の一流人にはそのままに当てはまる男の生きて戦うための誓言です。勿論これは信玄謙信の時代よりもっと複雑で魑魅魍魎の跋扈にまかせている現代にこそ真実に活かすべきことばだと思います。 

 H19.1

 

 

 

 

 

平成十八年度特別展

井伊兵部少輔家継承記念

特集 井伊の赤備と武具

―井伊達夫考証研究の半世紀―

 冒頭、私事ながら昨春縁あって旧與板藩井伊家を継承し中村から井伊になりました。若年より井伊家の武具甲冑や歴史の研究に携わり気がついたら約半世紀余り、いつの間にか、本人が「井伊」そのものになってしまったという按配です。與板藩は越後三島郡與板に城をもつ二万石の小藩でしたが、徳川四天王の筆頭で井伊家中興の英主井伊兵部少輔直政嫡系の家筋で、藩祖は彦根第二代城主から転じた嫡男井伊直継です。彦根を継いだ庶弟の直孝は父直政遺品の武具の殆ど全てを直継に渡しました。これは直孝が兄直継の家を「井伊直政嫡家」として尊崇した心のあらわれです。直継から数えて十八代目が不肖拙子です。甲冑と歴史を専門にやっている身として改めて我が家名となった「井伊」の「赤備」を再考する気持になりました。勿論記念的な意味合いもあります。実は今から八年前、井伊家の武具の特集をしたことがあります。こんなことを書いています。

 朱(赤)色の甲冑が戦場に現れたのは、室町時代の中頃です。朱の色は目立ちます。当然臆病者は使えない。強者にとってのみ、格好よく冴える色なのです。つまり逆にいえば、朱の色は武功を証明するライセンスカラーといえます。
 戦国時代になると、有力大名や国人衆の中に、配下の部隊あるいは軍団全体を朱色の甲冑で統一するケースがでてきました。武田信玄麾下では飯冨兵部の一隊、それに上州先方の小幡信真の一軍など。また小田原北条家も赤甲部隊を拵え、信州の真田も赤隊を編成したといいます。いわゆる「赤備」の発生です。この赤甲の集団部隊である赤備は、秀吉による天下統一の気運が高まった桃山時代に入ると、徳川家康配下で最大の軍団を率いる井伊直政隊に集約的に統一されました。「井伊の赤備」がこれで、井伊家を指して、アカオニというのは、この赤装の甲冑カラーから来ているのです。
 この赤備というのは、その始源が部隊の勇功を主公が認めたところから来ているものですから、他の一般的な部隊や侍が勝手に朱色の甲冑を用いることは許されませんでした。個人的にこれが許されているような人物はいずれも公認の豪の者ばかりでした。これは単に甲冑の色柄のみに限りません。侍の表道具である槍にも準用されていました。皆朱の槍などというものがそれです。たとえば上杉家では皆朱の槍は名誉武功の者にのみ限られ、大変にうるさいものでした。これを新参の加州浪人前田慶次郎が勝手に用いたことで、逸話的な事件がおこっています。ことほど左様にもののふにとって大切な色である朱の武具、とくにその代表である甲冑について、現在ではその重要性を知る人は少いようです。そこでこのたび当館では、戦国時代以来、もののふの夢と憧れの道具であった朱具足を特集し、男が本当のおとこであった時代の、彼等のいのちのうたを偲ぶことにしました。これはむろん我国初の試みで、天下一赤鎧の痴れ者である館主の自信作です。

 「赤備」の要点は右に尽きる。改めて読み返してそう感じ、手前味噌もはばからず再掲しました。この点御容赦いただくとして、よく考えてみると、武甲に用いられた「朱」の色は哀しみの色でもあるということを近頃とみに感じるようになりました。真のもののふの悲哭の色です。特認色を汚さないようにするためどれ程のサムライたちがやせがまんして、無理をして、格好づけして死んでいったことか。ヨロイカブトが黒のような一般色であったなら、そして井伊家の士でなかったなら、そこまで見栄を張る必要もなく、生き長らえることができたかも知れない。―思えば朱色の表道具はまことに哀しみの色相です。そんなことは今更こと新らしく考えたことではありませんがぼんやりと思い抱いてきたことが胸中明確になって来たということは、先の展覧会より更に八年を加齢させてもらった結果の悟り(?)であるのか。いや、そんな大袈裟なものじゃなく、単なる鈍根の老耗の果ての気の弱りかも知れません。としても、まだまだ故郷へまわる六部になってはおれません。第一そんなことをいってると御先祖直政公に一喝されること請合い。やはりいついつまでも勇往邁進の気を奮いたたせる血気が要りそうです。不肖と雖、古兵部公の先縦を慕うならば伏櫪しても志は千里に存る老驥の気迫をもたねばならぬでしょう。


                   とまれ御照覧 南無八幡

 
 

 

 

 

 

平成十七年度特別展

よろいとかたなの変遷(ながれ)

― 甲冑刀剣の諸相 ―

 古い鎧や刀を集めた専門美術館を創るのが若い頃からの夢でした。その夢を、とにもかくにも実現して七年。―一生懸命やってきたら早くもこんなに歳月がすぎてしまった。

 開館当初からの目標は、毎年テーマを決めた特別展を続けるということでした。他に仕事を持っている立場上、実現はかなり困難に思えましたが、それもどうやら怠ることなくこなして来ました。ありがたいことです。

 ひるがえって考えてみますと、なぜ、このようなボランティアに近い手間仕事に血道をあげて来たのか・・・。個人美術館は世間に少くない。それらの多くはいわゆる成金さんや道楽素封家の十年一日、かわりのない陳列、莵集自慢の羅列です。そこには展示の精神ともいうべき、目的、問題意識などは存在せず、あるのはマニアックな自己満足の開示のみです。

右の様なやり方は楽ではあろうけれど、それではやっていても意味がない。展覧の場には常に収集、研究家としての精神―気迫や情熱―が漲らなければならない。つまりは右様と一視同仁視されるのが厭やさの奮発なのです。そして七年目を迎えました。

―南無森羅万象です。

 

さて、本年のテーマ、「よろいとかたなの変遷(ながれ)」―甲冑刀剣の諸相―について少し述べます。

 甲冑と刀剣という防禦と攻撃の武具は、お互いにそのながれ―形式変化―に歩調を合わすように、同時的に変容をとげています。天然の石材や木竹獣魚皮等で戦いの道具が作られていた時代はさておき、我国に鉄の文明が導入されてから、甲冑と刀剣のスタイルは大きな進化をとげました。たとえば 甲冑の場合、板ヨロイから札ヨロイへ、刀剣は切刃の直刀から反りをつけた鎬造り弯刀への変移です。

 実は右の変化の時期が余り明確でない。刀剣の場合は、遺物からある程度推測されているが、甲冑の場合、その変容には相当ミステリアスな闇の部分がありそうです。

 これらのことについて、ここで余り詳しく書いているゆとりはありませんが、上代「カワラ」といわれていた着装防禦の道具が「ヨロイ」に進化した頃、直刀の「つるき」(都牟刈‐つむぎ‐の転訛、吊佩‐つるはき‐の約とも)が、弯刀の「たち」へと変身した。その時期は両者含めて奈良期末~平安初期中期と考えられます。この時期特定の時間差は相当なものです。逆にいえば、ここのところを押さえることが研究上最も面白い仕事ではないかともいえるのです。

 ところで甲冑形態の変遷はさきにも少しふれたように刀剣より複雑です。

 上古の「ヨロイ」は板鉄を鋲や革紐でとじた、「板ヨロイ」でした。これが、単純にいってしまえば、可動性の高い、いわゆる「足掻き」のある「札(さね)ヨロイ」に進化した。これが極めて単純化した通説ですが、どうやらまだその間には一段階あったと見るのが自然なようです。

 上古の鉄の甲羅のような短甲、あるいは挂甲がそのままあの華麗な大鎧や腹巻(後称胴丸)に変身するわけがない。その中間には大陸の綿甲のようなものが採用されていたにちがいない。有機質の多い布帛中心のヨロイは腐朽して残らない。遺品が無いのはそのためでしょう。勿論このような推論にもいろいろ問題がありますが・・・。(先にあげた挂甲が進化した残影は儀仗用の裲襠(りょうとう)のようなものにみることができます。)

 刀剣における切刃直刀から鎬造弯刀への変化、甲冑の板ヨロイから札ヨロイへの変容、両者に共通しているのは、「柔軟な動点・力点の移動」です。柔らかく動き、捌き、しなやかに撃ち、斬る。―これが必然性を生じたのは戦法の変化―戦いの主力が徒歩から騎馬に移ったためだと考えられます。

 馬上では鋲止めの甲羅のヨロイではつるぎや弓矢が扱いにくい。徒歩戦でなら直刀も悪くはないが、馬上から斬り落とす場合、反りがないと―つまり弯刀でないと、斬れが悪い―大雑把にいって以上のようなわけあいから、攻撃と防禦の兵器に大変化がおこった。そのもとのはじまりは要するに大陸からの騎馬文化の移入というところに行きつくようです。

 以後、長い年月と厖大な血の流れの果てに「ヨロイ」は「具足」に発展変化し、「つるき」から進化した太刀は、風俗的に、「打刀」(かたな)へと移ってゆく。

 今回の特別展の開催に当って、ごく簡単に解説的なことを記しましたが、テーマが壮大すぎます。限られた空間しかもたない私設美術館では存分の展示がかないませんが、かねてからの宿願のひとつであり、七周年を記念してとりかかってみました。このような力仕事がいつまで出来ますかわかりませんが、武具を日常的に取扱うようになって四十四年。この先は最早、命尽きるまで、といった思いです。

H17.1

 

 

 

 

 

平成十六年度特別展

新修彦根市史編纂協力記念

藩屏(はんぺい)魁将(かいしょう)の餘(よほう)

特集・彦根藩井伊家の武具と文書

           [後援] 彦根市・彦根市教育委員会・彦根市史編纂室

「藩屏魁将」―何とこむずかしいタイトルと思われるかも知れません。藩屏とはふつうには隔て、とか間垣のことをいいますが、転じて皇室の守護を意味します。井伊家は南朝以来尊皇の志篤く、江戸時代は京都守護の大任に当っていました。下の二文字「魁将」。これは文字通りサキガケをする武将、すなわち幕府先鋒の家格を誇った井伊のそのときどきの当主と麾下の勇将たちをさします。「藩屏魁将の家」という用語ほど井伊家の権威と職責を的確に表現したコトバはないと思います。つまりは井伊家の藩主や重臣たちの、遣された史的遺品―餘芳―を今年度は特集というわけです。

 思いかえせば、井伊家の古文書史料類を蒐めたり調査をはじめてから、四十年余りたちます。貴重な書き物類が東西に散佚したり、甚しい場合焼却されたりするのは哀しく淋しかった。残念無念―まさにそんな切歯扼腕の思いでした。

 「力及ばずとも、たとえ一点、一点ずつでよい。手の及ぶ範囲で蒐めておけば、いずれは郷土の歴史に役立つときがくる」

 史料の蒐集と保存、それに研究―この根気の要る、栄えのない、永い旅路の牛歩に耐えられた理由を無難にいえば、失われる郷土の歴史に対する愛着と郷愁―といった月並みな綺麗事の表現になってしまうかも知れません。要は、単的にいってしまえば、そんなよそ行きの使い古された飾り言(ごと)はいらない、あったのは「好き」の心ひとつです。そしてただ「一途」にやれば、そこにある種の精神―志―といったものがみえてくるのではないか。

 

 『彦根市史』が新修のカタチで再編纂に入ったのは平成六年。暫くして市史編纂関係の方が来訪され、蒐集史料の閲覧使用を依頼された。時節は漸く到来したのです。

 この時が来るまで、実に長い歳月がかかった。古文書収集の大家中村直勝博士の文章の中に、古文書を買い入れ、慈み抱いて、世に出すまでの期間を〝…年の胎児〟と表現してあったような記憶がありますが、まさに四十年の胎児が呱呱の声をあげるときが来たのです。古史料が個人的に研究されるのも勿論結構ですが、歴史的に重要なものは公的に利用されてこそ本来の意味と価値を発揮するものです。この時ばかりは、ひたすら長い沈黙を忍び送ったあれやこれやの史料たちが、筐底から立ち上り、私にむかって一斉に拍手哄笑したような気が、たしかにしました。彼等の多くはいま『新修彦根市史』のなかにたしかな地歩を占め、永久の命をとどめることになりました。これを記念した特集展を開催するのは、美術館の真似事をしている私にとっては一種の義務でしょう。本展開催の趣旨は、ざっと以上のようなところにつきます。

 しかし書いたものばかりでは固苦しくて、一般の人々には窮屈すぎる。子供にでも直接的でわかりやすい武具甲冑も必要でしょう。殿様の愛刀や井伊の赤備もいろいろ用意しました。手狭な会場で思うような展示ができませんが、どこかに蒐集と研究のココロザシのようなものが滲みでていれば、主催者の本懐これにすぎるものはありません。

                

​ H16.1

 

 

 

 

平成十五年度開館五周年記念企画特別展

武門のステイタス

    式正と異風と

―優甲名刀にみるさまざまなる意匠―

 武士(もののふ)の世界は、矜持(プライド)でなりたっていたといっていいでしょう。矜持―というのは、利害得失をヌキにした自己責任能力です。それは「義」といってもいい。「義」というのは、たとえると〝こんなことをすれば自分は損をする。まわりや仲間にもまずい。だから本当はしない方がいい―と頭でわかっていても、断じて行うことが正しいことであれば、大勢に反してでもあえてそれを行う義務的行動力です。ジェントルマンシップということばにおきかえても気分的にはいいかと思います。「武士社会」は、いってみればこの痩我慢にちかい滅私没利的精神を身分が高ければ高い程濃厚に保持すべきものとして教育されました。そして、その表徴(シンボル)とみなされたものが、表道具である「ヨロイ」と「カタナ」です。

 武士本来の正装、つまりハレの装いである鍬形打った兜に大袖附の大鎧や胴丸、金銀装の刀剣…。これらの道具は下級の士には無縁です。上級の武士が、このような綺羅を飾った武具を用いることを許されたのは、もののふとしての矜持を損すことなく、全うしなければならないという―責任義務に対する反対給付―としてであったのです。

 一方、右にあげたような式正のヨロイやカタナに対して、異装異風の武具があります。植毛の兜や、仁王の体形を打出した胴、あるいは鍔を省略した刀の拵等々。

 しかし、よく考えてみれば、これらストレンジな武具における装いも、式正なフォーマルなものに対峙するアンチテーゼなものではなく、武士社会の矜持に裏打ちされた特権意識のデフォルメに他ならないことに気付かされます。換言すればもののふのプライドの更なる強調・明確化―です。

 くどいようですが、武士と一口にいっても格禄がなければ、美麗な甲冑や刀剣も、人目をそばだてる異様な装いもできません。もののふとしての全ての面における矜りのつみかさねの質量と圧縮度―むろんこれらは一代や二代の侍ぐらしで果たされるものではありませんが―それらの目に見えぬ累積が、ハレの装いの厚薄軽重を決定づけたのです。「武門のステイタス」といった意味がここにあります。ハレの装いとは要するに「死に装束」です。もののふの花道は「天晴なる死」にある。武士はおのれの矜りを世間に強くアピールし、アクセントづけるため、独自に装って潔く死に即く。哀しいけれど理想的な矜持の結末です。

 式正といい、異風といい、そのカタチのおもてづらだけをみていると、ただ「正」から「奇」への変化だけにすぎません。しかし以上のことを考え、よくみつめてみると、それらの内奥―面頬の奥や、刀身を収めた鯉口から、声にならぬもろもろの叫びや呻きもきこえてくるような気がするのは私だけでしょうか。

 四十五年武具に触れてきましたが、今回はそれらもののふのいのちの道具を数多く取り聚めて、改めてかれらの発する内奥の声の正体をさぐってみたいと思うのです。

    

 H15.1

 

 

 

 

 

平成十四年度企画特別展 

NHK大河ドラマ「利家とまつ」協賛

利家と同季の将領(つわもの)たち

―ゆかりの刀剣甲冑展―

[協力催事]「利家とまつをめぐる人々」石川県立歴史博物館

「利家とまつ・加賀百万石物語展」NHKプロモーション

石川県立美術館、他各NHK開催地局

 

 前田利家という武将は不思議な男です。もとはといえばカブキ者のはしりのような武辺一辺倒の荒くれ者、戦国の天才信長に引き立てられとにも角にも一城の主とはなりました。ここまではそれなりの実力だったといえましょう。ところが信長が殺され秀吉に属するようになってから運命が大変転、一時的ながら徳川家康と天下を二分して争う程の大モノに成長しました。身内の少い秀吉と仲が良かったこと、猛勇の裏にある実直性―これらが利家を大きくしたゆえんですが、単にそのような良性的律儀さだけでは加賀大納言百二十万石の礎は築けなかったでしょう。一口にいえば戦国人には乏しい有徳性―人徳―がつまりは利家を大モノに仕立てあげたのです。実際賤ヶ岳の戦いでは盟主の柴田勝家を裏切っています。しかしその事は殆ど語られず、利家の履歴の欠点とはなっていない。実直を表看板にした行動の裏にある狡智は実はなかなかのものだったのです。このあたりが利家の魅力であり、不思議なところです。せいぜいが十万石程度の大名どまりの男が戦国の棹尾を飾る覇者の一人となっ

た。この不思議を考えることは歴史と人間の運命を考える上に実に大切なことだと思います。

 このたびはそのあたりのことを頭に入れ、いろいろ考えたくて特集を組みました。当館所蔵の利家の愛刀やよろい、それに係る前田家重臣の甲冑や同時代の武具を観て、共に考えてみませんか。

 H14.1

 
 

 

 

 

 

平成十三年度特別企画展

―開館三周年記念―                                                      

武の匠たちが支えた

  不惜身命の世界 

   特集―由緒を誇る名刀優甲展

 武士(もののふ)の覚悟は、有事断然、一息截断の精神の持続にあります。この揮発度の高い緊張を継続的に保持することは言うは易いが実行は至難です。そこに要求されるものは、生死の事大を識り、迅速に逼る無常に泰然と咲って耐える強靭な未練なき心でした。

 もののふにおける死を覩ること帰するが如き精神に培われた所作―振舞に不可欠の伴侶が刀剣と甲冑でした。刀は士道に徹し最期におのれをたてるための死に狂いの道具であり、生存を期するための凶器ではなかった。甲冑もまた、もののふを存分にするためのハレの死装束だった。

 この故にこそ刀剣や甲冑は武士の表道具と称されたのです。それらのおとこの道具をまた異なった意味で命期して造り続けたのが刀工や函人と称われた甲冑師たちでした。 彼等はいわば士道のバックボーンを陰で支えた功労者といってもよいでしょう。

 このたびは当館開館三周年を記念して、これら誇り高き名工たちが丹精こめて作りあ げた由緒ある名刀・優甲の数々を聚飾することにしました。この機会にもののふ精神の 粋美をいくらかでも感得していただけたら展覧の素志は達せられることになります。

 H13.1

 

 

 

 

平成十二年度長期特別展

特集・日本の赤鎧

朱き鬼たちの聚宴(うた)

 朱(赤)色の甲冑が戦場に現れたのは、室町時代の中頃です。朱の色は目立ちます。当然臆病者は使えない。強者にとってのみ、格好よく冴える色なのです。つまり逆にいえば、朱の色は武功を証明するライセンスカラーといえます。

 戦国時代になると、有力大名や国人衆の中に、配下の部隊あるいは軍団全体を朱色の甲冑で統一するケースがでてきました。武田信玄麾下では飯冨兵部の一隊、それに上州先方の小幡信真の一軍など。また小田原北条家も赤甲部隊を拵え、信州の真田も赤隊を編成したといいます。いわゆる「赤備」の発生です。この赤甲の集団部隊である赤備は、秀吉による天下統一の気運が高まった桃山時代に入ると、徳川家康配下で最大の軍団を率いる井伊直政隊に集約的に統一されました。「井伊の赤備」がこれで、井伊家を指して、アカオニというのは、この赤装の甲冑カラーから来ているのです。

 この赤備というのは、その始源が部隊の勇功を主公が認めたところから来ているものですから、他の一般的な部隊や侍が勝手に朱色の甲冑を用いることは許されませんでした。個人的にこれが許されているような人物はいずれも公認の豪の者ばかりでした。これは単に甲冑の色柄のみに限りません。侍の表道具である槍にも準用されていました。皆朱の槍などというものがそれです。たとえば上杉家では皆朱の槍は名誉武功の者にのみ限られ、大変にうるさいものでした。これを新参の加州浪人前田慶次郎(この人もまたとびっきりの豪傑ですが‐甲冑出展‐)が勝手に用いたことで、逸話的な事件がおこっています。ことほど左様にもののふにとって大切な色である朱の武具、とくにその代表である甲冑について、現在ではその重要性を知る人は少いようです 。そこでこのたび当館では、戦国時代以来、もののふの夢と憧れの道具であった朱具足を特集し、男が本当のおとこであった時代の、彼等のいのちのうたを偲ぶことにしました。これはむろん我国初の試みで、天下一赤鎧の痴れ者である館主の自信作です。

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平成十一年度特別企画展

―開館記念特別展―

貴人・名将の刀剣甲冑

 鎧・兜を見続けて三十五年余りにもなる。いつの間にかかれらに対する独自の視点が決まってきた。単なる好悪の感情とか、製作上の巧拙精粗によるものではない。自己の歴史研究は勿論、文化、芸術等、あらゆる人生体験によって造られたおのれの視点に、それは容れられるものか、そうでないか。つまりひとつの「自己信念」というものをフィルターにした視点である。その「信念」なるものが、思うように説明できない。ヘタに文字化すると随分気障な言い廻しになってしまうおそれが多分にある。

 郷里の彦根にむかし造幣局があった。剣道が盛んで道場もあった。たしか中学初年生の頃であったと思うが、そこへ山岡鉄舟の門下という老剣客が招かれて来たことがあって、見に行ったことがある。いかなる機縁か忘れたが、当時彦根城近辺では時代劇映画のロケが頻繁にあって、そういうものも授業を抜けてでも可能な限り場を外さずに観に行っていたから、老剣客のことも情報には敏かったのだろう。

 老剣客の着用している道具は何の変哲もない黒胴であったが、竹刀が太く、そのため少し短く見えた。その姿で局員や来会の人と立会うのだが、老剣客の竹刀は遅かった。今から思えば若い元気のよい四、五段には勝てなかったにちがいない。しかしその太刀捌きにはえもいわれぬ雰囲気―品位―があった。ひょっとすると実戦経験の剣士の剣の遣い方はあれでないといけないのではないか―と思った。質朴であるが重厚で、動きは遅くみえるが当たれば必殺の撃ちにちがいない。その後社会人になってから大津の道場で武徳会範士の立会いもみたけれどそれは竹刀の曲芸で、迅いばかりで品格がなかった。今尚その範士の華やかな赤胴が軽薄そのものの印象で残っている。

 私の甲冑武具に対する理想は、かつての老剣士にある。それは今まさに私の胸の中でひとつの固い信念となっているのである。とも角大急ぎで初年度展覧会の準備をしたが、選んだものは私の右のような信念に叶ったものである筈である。このことわかっていただけるかどうか。

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