 井伊直惟自筆 - 旭日寿鶴之図従四位下侍従に任ぜられ備中守を称した最初の正月(正徳一二年)に自ら祝して画いた旭日寿鶴の画。このあと、直惟は若くして逝った直恒のあとをつぎ彦根、井伊家第八代藩主となった。(代数は従来の誤った数え方を用いず、正史に従っている) |  井伊神社由緒1井伊神社は彦根藩第十三代藩主で幕府の大老でもあった井伊直亮が、天保十三年八月彦根城の東郊佐和山龍潭寺のほとりに、遠祖藤原共保の宮として井伊八幡宮を建立したのにはじまる。これは共保の七百五十遠忌に際しての報恩記念事業だったが、この宮への近郷百姓拝礼御免は封建身分制度下にあって極めて注目すべき処置である。さらに弘化三年に及び藩主・家中重臣らの寄進寄附によって社殿が造営され、その結構は豪奢を極め、近隣の大洞弁天堂と共に彦根の名所となった。第二次大戦後社殿は荒廃、鳥居は倒壊。ここに存する神額類も、外部に流出し行方不明になっていたが、井伊家史料の保存につとめていた当館長の発見購求により救出され保存されているもの。神額の井伊神社の書は明治二年神祇伯兼右近衛中将であった白川資訓の筆。 |  井伊神社由緒2井伊館長は井伊家の歴史、特に軍事関係の史料と赤備えの甲冑武具の研究を若い時から続けてきた。彦根から京都へ移住し、下鴨に戦陣武具資料参考館を開設した時、旧彦根藩ゆかりの者として井伊家先祖への尊崇の志をあらわすため、邸内に井伊直政をお祀りする小祠をしつらえる。これが現在の京都井伊神社のはじまりである。主神は井伊氏始祖共保と、中興の祖直政の両公である。 |
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