井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
井伊美術館の特色
井伊美術館は、甲冑・刀剣史学研究家である井伊達夫館主が調査のため研究寄託を受けた歴史的遺品などを所蔵者の理解を得て一般に展覧する 、我国でも唯一といってよい甲冑研究考証の美術館です。資料における歴史や 由緒の係わりを尊重し、その考証に力を注いでいます。
館主はこの趣旨を早くから抱き、平成11年夏の開館以来足かけ16年、毎年テーマを決めた特別展を好評のうちに開催して参りました。今後も刀剣・甲冑のみならず、歴史や武道に志す人々の楽しい談議所にしたいという気持ちです。(2015/01)
調査研究の範囲
日本の鎧兜・刀剣のみならず、馬具、陣営具及び記録に基いた戦史・兵法等、博く資料を採訪し、研究と発表を続けています。近年、その範囲は日本のみならず亜細亜、欧羅巴の武器甲冑に迄及んでいます。
半世紀にわたってこの仕事を続けてきましたので、確実性のある評価・鑑定機関として認識されています。物件により、甲冑武具、歴史文書史料類を鑑定致します。(2015/07)
大阪夏の陣 木村重成隊部将 山口左馬助弘定所用兜
(井伊直孝隊八田金十郎知當討取)
井伊達夫(直達)
昭和17年彦根市生れ。
幼時より歴史と甲冑武具に興味をもち、先祖柄井伊家の歴史、特に軍事・軍制について研究をはじめる。史料や史話の採集と保存にもつとめ、実戦刀術・古兵法を探求する。無住心剣竹斗会々主。岡本宣就系上泉流血脈相承伝系保存。昭和45年彦根藩甲冑史料研究所、昭和60年戦陣武具史料館(京・下鴨)、平成11年甲刀修史館(京・東山)を開設。一方歴史文学にも志し、「越の老函人」で北日本文学賞(井上靖選)、「宮王守」でグラフィック茶道小説新人賞(多岐川恭選)、その他小説サンデー毎日新人賞に「断絶の本懐」「妖怪」「異聞勝川の鎧」で三年連続最終候補(選者 柴田錬三郎、川口松太郎、村上元三―その後同誌は休刊)。平成17年井伊家嫡流名跡相承後、甲刀修史館を「井伊美術館」と改称。現京都井伊美術館館長、日本甲冑史学研究会会長(同会主任鑑定士)、その他彦根藩史料研究普及会、日本甲冑研究交歓会、甲刀倶楽部など甲冑史学関係団体を主宰。
主著
「彦根藩公用方秘録」(昭和50年)
「井伊軍志―井伊直政と赤甲軍団―」(平成元年)
「井伊家歴代甲冑と創業軍史」(平成9年)
「剣と鎧と歴史と」(平成11年)
「赤備え―武田と井伊と真田と―」(平成19年)
「戦国甲冑うらばなし」(平成28年)
「ほんものの 井伊直虎 ホントの本当 上下」(平成29年)
「井伊直弼史記ー若き日の実像ー」(平成30年)
主論文
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明智光秀の光と影(令和二年度明智光秀特別展 基調随論)
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秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって) —— 贈答事情から窺われる明智光秀の人間性 ——(令和二年度明智光秀特別展 基調随論)
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再び世に出た光秀の愛刀「近景」令和二年度明智光秀特別展 基調随論)
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名物刀剣における伝承の発掘と考察 典厩割国宗の場合 (第一回本間薫山刀剣学術奨励基金による研究論文入賞作)(「研究紀要」 平成5年11月)
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国行銘太刀における朱書「仁和寺別当」の考察(「刀剣美術」平成6年12月)
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木村長門守重成討死の節の佩刀について(「刀剣美術」平成7年10月)
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竹中重治と伝説の名物刀 虎御前の研究(「刀剣美術」平成9年5・6月)
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名物丈木攷(じょうぎこう) (第二回本間薫山刀剣学術奨励基金による研究論文入賞作)(「研究紀要」平成10年10月)
その他甲冑論文多数
井伊美術館への道のり
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昭和40年 彦根藩甲冑史料研究所開設
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昭和59年 戦陣武具資料参考館へ(彦根藩甲冑史料研究所併設)
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平成11年 東山祇園中村甲刀修史館開館
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平成17年 京都井伊美術館へ
赤鎧への興味と彦根藩甲冑史料研究所の開設
彦根藩井伊家の軍事的な部分、特に我国唯一の特殊軍制である「赤備え」――朱具足軍団――に興味をもちはじめたのは、中学一、二年生の頃であったと思う。夏休みの研究に、彦根城のなりたちや曲輪の名前などを畳二枚分位の紙に図示して出したら先生にえらく褒められたことがあって、その辺りから急に井伊家の歴史や赤塗りの鎧兜に意識をもった。それが発育して、彦根藩としての軍制と戦史の調べ事に、肝腎の学業はそっちのけで頭を突込むことになっていった。
母校の彦根東高等学校は、藩校弘道館の流れを継ぐ歴史的由緒を誇るいわゆる名門進学校だけに、図書館の蔵書は高校には勿体ない程充実していた。ここへ極端にいえば入り浸るようにして『大日本史料』を読んだ。苦手(大抵全てそうだったが。但、大目付をオオメツキ、典厩をテンガイと読んだ歴史の先生、訓を違えた漢文の先生には不要なチェックをした位のことはある)な数学や英語の時間は可能な限りサボって図書館通いである。図書館の事務所が職員室代りだった国漢の先生からみれば、本を読んでいるのが何者かはわかる筈だが、ジロリと一瞥を与えてくれるだけで何も咎めることはなかった。今から思えば素晴らしい校風であった。
これは何かに書いたことだが、二十年程前母校の総会か何かに招かれて話をしたとき、図書館へ行ってその本類の貸出票をみたら、一番最初に私の名前があるだけで、以来誰も借り出した者はいなかった。あの『大日本史料』という大部な貴重書が「禁帯出」扱いでなかったのも凄いことである。むつかしい漢字が多い歴史書であるから、不得要領な部分も少くなかったが、あの分厚い重量のある本を抱えての往還はえもいわれぬ優越感を感じさせてくれた。特に嬉しかったのは、大阪両陣のときの井伊家の侍たちの功名書上であった。当時の侍たちにも我々が学校を怠業する程度ではすまない程のいい加減な連中がたくさんいたということである。サムライというものはこうあるべきもであって、こうであった――と観念的に思いこんでいた当時の私には、大きなカルチュアショックであり、目からウロコであった。
これが、更にどっぷりと井伊家の侍と軍事に浸かってしまうはじまりとなって、社会人になってからも紙キレ1枚の古文書さがしから赤ヨロイの部品採集までが、人生の主目的のようになってしまった。その挙句、彦根藩甲冑史料研究所の看板を、書士業事務所兼営の自宅に掲げるようになった。昭和40年はじめの頃である。ちょっと本腰を入れて、井伊の赤備にとりかかった。
同じ頃、KBS京都滋賀放送局の『歴史裏話あれこれ』という定時放送番組(週3回)を企画し、原稿を書いて放送する仕事もはじめた。これは日本歴史の裏話を勉強するのに大変役にたった(結果的にこの番組は20年ちかく続いた)。
『彦根藩朱具足と井伊家の軍制』というのを出版したのは昭和45年で、私の甲冑研究人生を方向づける記念的著作となった。彦根藩甲冑史料研究所を開いたおかげで、方々から史料を寄せてくれる人もあって、その成果が早速実を結んだ形になった。B6版180Pの、今から思えば促成栽培の粗笨であるが、その後の史料発見と図書の刊行のいろいろを見直すと、全ての発見がこの史料研究所の開設にあると思われる。現在の井伊美術館の原点も、もとを辿ればスタートはここにあったということをこの頃痛切に感じるのである。
(平成27年4月24日)
戦陣武具資料参考館開館の辞
戦陣武具資料参考館開館の辞
歴史ものを執筆し、ときに新史料を発掘したりすることがあるので、しばしばマスコミ関係の人に取材を受けます。そのとき、決まって聞かれるのが、なぜ、そんなに歴史に没入するようになったのか。そこから派生して、なぜ、そんなにヨロイやカブトが好きになったのか。………
このとき大抵、インタビュアーは部屋の周囲にある奇態な(としかみえないらしい)古甲冑に視線をおよがせ、反転するとおのが理解の及ばぬ古怪な棲物をそこに発見したように、好奇と、なかばの羨望と、またなかばの憐みを宿した複雑な眼の色で、私をみつめるのです。
そこで私は、きまって小首をかしげる。無言で、です。取材者は気をきかせて、呼び水を灌ぐ。
「井伊家のおサムライの子孫だからですか」
これまた、型にはまったように、同じ問いです。だれもいまだかって、この軌を外した人はいない。人は同じ状況のもとでは誰しも同じことを考える。とかなんとか、そのようないにしえの名言があったやに思いますが、そのたびに私は、古人に篤い畏敬のおもいをはせ、眼前にある質問の本旨を忘却してしまうのが常でありました。
「そこには現代にはない夢が、ロマンがあるからです」
以前はそんなことを、チャラチャラと答えていました。取材者側はこういこう格好づけた聞き栄えのする表現をよろこぶ。極端にメルヘンチックか、激越な現実調か。口調は上下の振幅が厚い方がいい。
しかし、ことばにアクセサリーをつけ、厚着させればさせるほど、一見そとみはいいようにみえますが、中身が脱落してしまう。表現は事物の本質から乖離したものになるのです。
歴史や甲冑に興味をもったのは、幼稚園の頃からです。そんな年頃に「現代にない夢がロマン」がわかるはずがない。
今にしていえば、なにか自分の血にわけもなく惹かれるものがある―好き…。ただそれだけです。つまり、ことばで姿よく表現するほどの理由は「ない」のです。
「好き」に理屈はないと思います。そのことばに別に取立てて際立った大義名分はたてなくてもいいでしょう。
ただ「好き」だけで古文書の紙魚を逐い、古ヨロイの残片を拾いつづけて、30ちかくもの春秋を送ってしまいました。歳月堆積のあかしともいうべき蒐集古物も、いささかの量になりました。
これを一人の楽しみとし、櫃におさめ、行李に縛って、家鼠や衣魚両公の桃源郷となし、やがて恍惚として逝くのもまた可なり、ですが、むしろ陋屋に鄙の物集めなりともこれを公開し、同学同好、友愛の媒とするこそ、たのしけれ、と思い至るようになりました。
近頃は古文化財保存が声高に叫ばれ、その影響ゆえか、各地に個人博物館ないし資料館の開設がしきりです。
趣意書など読みますと、地方文化へ寄与するためとか、いろいろ称揚すべき主旨を掲げてあり、ただ感服するばかりです。また、それを首肯させ得るだけの立派な収蔵品を数多く、それぞれに保存されているのも事実のようであります。
私が今回設けました「戦陣武具資料参考館」はいうまでもないながら、とても左様なみごとなものではありません。比較すれば蔵品もいまだ寥寥たること論をまたない。
したがって、文化財理解の一助にとか、もののふへの鎮魂などと申すような立派な旗印は掲げられません。ただ「好き」が昂じたまでのことですから。…
しかし考えてみると、ただ「好き」だけでは、この年齢になってくるとやはり妙に淋しく、物足りない気分です。
これを機会にもっと本念を入れて歴史と古武具の勉強につとめ、人生というインタビュアーに、なにかすばらしい答えを出せるよう研鑽したいと念願しています。
ところで本館開設に係り、諸先生方から有難いお言葉を賜りました。末筆になりましたが誌して厚く御礼申し上げますと共に、御所蔵の貴重品を快く寄託されました方々にも、深甚なる謝意を捧げる次第であります。
合掌
昭和59年歳稔陽復吉祥日
館主 中村達夫
戦陣武具資料参考館のこと
戦陣武具資料参考館のこと
井伊家の文書類や武具関係資料を調査研究するために、現在では故郷となった彦根の住居に「彦根藩甲冑史料研究所」を設けたのはもう40年ちかい昔のことである。彦根をはらって京へ出たのはそれから十数年後の昭和58年(1983年)春だったが、1年程して少し落ちついた翌年、中京の御池西洞院に「戦陣武具資料参考館」を開いた。これはその後下鴨北園町に移転したが、この施設がのちに東山祇園中村甲刀修史館(平成11年開館)となり、私の旧与板藩井伊氏継承により、更に京都井伊美術館へと発展的改称をみたわけである。
「彦根藩甲冑史料研究所」は現在も併設のままであるが、「戦陣武具資料参考館」はいわば私の現美術館開設に至る起点、母体となった記念的 資料館であるので、その時の開館の辞と御支援の方々の文章を本書の為に改めて再録しておこうと思う。
(平成18年 井伊 達夫)
戦陣武具参考資料館 開館によせて
(『歴程集』より。 肩書きは当時の現職による)
戦陣武具参考資料館 開館によせて
中村甲刀修史館の開館によせて
田野邉 道宏(財・日本美術刀剣保存協会事業部長兼調査課長)
中村達夫さんは此の度、甲冑等を公開する専門の資料館を主目的に、また歴史や武道に興味を抱く人々の語らいの場としても活用していただこうという趣旨で、「中村甲刀修史館」を創設されたが、この開館を機に氏が長年に亘り慎重に吟味研究されてきた刀剣・甲冑および関係古文書類の研究成果が発表されていくことになるのはまことによろこばしい。
中村さんは彦根に生まれ、彦根に育ったことから井伊家に対する思い入れは一入のものがあり、井伊家の誕生と井伊戦法の秘奥の解明や同家の甲冑・刀剣など武具類の研究に関する著書は『井伊軍志』『井伊家歴代甲冑と創業軍史』を始めとして多くをかぞえ、何れの著述も幾多の武器・武具の異例や古文書等の史料の博捜によって分析し実証された画期的な労作である。しかも本年4月には同修史館開館の記念刊行物として、総頁数約850頁に及ぶという大著『刀と鎧と歴史と―中村達夫刀史論集―』を物されており、その情熱と活力の凄さには、ただただ驚くばかりである。小生も拙著の中で少なからず氏の学恩を蒙ってきたことをこの場を借りて申し添えておかねばならない。
中村さんは若い頃、歴史作家を目指しておられたと聞き及んでいるが、さすがにその巧みな表現力や語彙の豊かさ・発想のすばらしさ、また検索力は並外れたものがあり、それ故か氏の著述はこの種の本にありがちな堅苦しさがなく、読む者をぐいぐいと引き込んでゆき、一気に読了させる魅力を持っている。
甲冑と刀剣の両者は不離のものであるというのが中村さんの持論で、常日頃提唱されているところである。たしかに甲冑と刀剣は防禦と攻撃という二つの相対峙するファクターであり、この両面にわたって深く極めることこそが研究者の理想の姿と言えるのであるが、現実にはどちらかに偏る研究者が殆どで、そうした観点からも氏は数少ない貴重な存在といえるのである。これまで中村さんは第一回薫山刀剣学術奨励基金による研究論文に「名物刀剣における伝承の発掘と考察・典厩割国宗の場合」で入賞、さらに第二回薫山刀剣学術奨励基金による研究論文「名物」丈木攷」でも入賞を果たされており、刀剣史話の考証・研究の分野でのアプローチは多くの刀剣研究家より注目を集め、小生もその並々ならぬ熱意には常々敬服するところである。中村さんが外部から管理を委託されている刀剣類は(財団法人)日本美術刀剣保存協会が指定する重要刀剣以上の物を含め数多い。質的にはすぐれているばかりでなく、資料的にも価値の高いものが多いが、それらについて将来順次考証公開展示されてゆくことは斯界の展示において随分貴重であり、大切な仕事であると思う。今後の益々のご発展を念願する次第である。
(『寄託・蔵品圖録』(平成11年)より。肩書きは当時の現職による。前刀剣博物館副館長)
中村甲刀修史館から井伊美術館へ
甲冑・武具の研究を軸に、刀剣にまつわる史話の考証などをはじめて、もう大分の時 がたちました。調査のため諸方から武具刀剣類を、それも長期にわたってお預りする のは常のことです。しかし預託をうけたままでは惜しい。そこで専門家の研究のためな ら特別にお見せするということで、京都戦陣武具資料館(旧称戦陣武具資料参考館) というものを設けました。爾来、既に20年以上の歳月が過ぎました。
その間。是非公開を!という一般の方々の声頻りで、何とかこの要望に応えたいもの と願っておりました。自分にしか出来ない武具専門の美術館の実現は私の人生の夢で もあります。
ただ信用だけで貴重な資料の預託をしてくれている所蔵者方に、夢のような公開資料 館実現の可能性の予告を折にふれ時にふれ言いまわって、公開への了解だけはおお むねではありますが、早々と取りつけてしまいました。これがまず第一の先決条件です 。暇を見つけてはの場所探しがそれから始まりました。故郷彦根は勿論、京北山の奥 、はては四国川之江の戦国古城址まで…。
「所詮は、やはり夢か―」大した資金もない上のあてどのない探索放浪。旨い具合にい く程世の中甘くない、しかし今ふり返ってみれば、そのような夢さがしの旅を続けること 自体が、たとえ徒労であっても退屈な日常生活のくりかえしの連鎖を破ることになって 楽しかった。しかし、その時の現実の思いは「無理な算段は、やめた」でした。いい年齢をして、夢ばかり追っては生きられない。諦めました。
その途端、まさに断念したトタン、何と隣家が売りに出たのです。しかし、これも話とし てしては条件的にむつかしく、断腸の思いで諦めていたら、他の不動産業者から同じ 話が舞いこんで…そして結局私の手に…。
遠い所ばかりさがしまわっていたが、本命は何と足許―隣り―にあった。灯台下暗し というか、運命の皮肉というか。これが縁というものなのでしょう。目に見えぬ天恵という ものをこの時ほど感じたことはありません。「中村甲刀修史館」(当時)は、このような訳合いで 誕生しました。
館の本体は江戸末期建設に係わる茶邸、文化財的な古い邸屋ですので、戦国豪族 の居室を再現した他は内部を出来る限り旧状を損なわない現状維持に努め、外観を 武家屋敷に改装しました。表門は井伊家の京都藩邸(河原町朱邸)大門を模し、門内 に井伊神社(御神体井伊直政公)を祀りました。玄関脇の茶室嘯雲庵は京都山崎妙喜庵の利休の茶室待庵の規模に則り、持仏堂には伝一乗止観院文殊菩薩坐像(等身)を安置しています。
私は、私自身は勿論、古武具やその歴史に政治的色合いをつけることは大嫌いで す。それを断った上でいうのですが、現代ほど”有事断然”の実精神が要求されている時代はないと思います。有事断然、一息截断はまことの武士の精神です。このささやかな資料館がこの心を少しでも体現し、合わせて古武具のみならず、歴史や武道に心を むける人々の末永き談議所となれば幸いこれに過ぎるものはありません。また私自身も 、これを機に更に古武具を大切にして研究にいそしむ決心をしました。時を越え、現今に残るものには目に見えぬ命が宿っています。この命をおろそかには出来ません。
平成11年11月吉辰
井伊達夫 敬白