研究者の方々へ

 

今回の史料発見にともなって今川や井伊谷の研究がますます進展してゆくことを願っています。単行本・雑誌等に掲載希望の方は史料使用の許可申請を行ってください。メール又はFAXにて御所属・御芳名・申請趣旨を明記の上お申し込みください。

(無断転載・転用防止のため)

​『河手家系譜』重要部分

無断転載・転用は禁止されています。

新発見史料『河手家系譜』中の主役

  河手(井伊)主水佑景隆について。

       井伊直虎補佐、次郎法師後見、井伊直親娘(直政姉)の義父

 

大坂陣憤死 河手主水良行・良富 墓

(良行は景隆の子・良則の養子)

彦根城外南郊河瀬

​撮影昭和50年代

○井伊直虎時代の井伊谷における陰の支配者河手(井伊)主水佑景隆について。

従来、井伊谷に於いて、今川氏真の徳政実行を妨げていた井主(「いしゅ」―永禄11年8月4日付関口越後守氏経書状中の人名略称表記)なる者は、近年の研究者によってはじめは次郎法師=直虎としていたが、永禄11年9日14日今川氏真安堵状中の”主水佑一筆明鏡云々”によって井伊主水佑であると決定されている。しかし、あくまでその正体は不明であり、人名特定は前記の如く想像の範囲を出るものではなかった。

 

○ところが、今回の新史料『河手家系譜』中の記録によって、この人物は元来松平(徳川)家の家臣である河手主水佑景隆であることが判明した。この河手主水佑は三州川手と武節両城の城主であったが、武田に攻められ城を脱、立野に蟄居した。永禄6年頃新野佐馬助の招きに応じ井伊谷(立野より約18里、約1日行程)に来り、直虎に属し次郎法師を後見したが、井伊直親の娘(直政の姉、おか江‐高瀬姫)を父代りとなって保護し、のちに子息文左衛門のち(主水)良則の妻とした。

 

○このとき主水佑は河手を改め一時井伊を称している。これは井伊家が断絶状態になっていたので、高瀬姫やその他の井伊家族中の依嘱によって高瀬姫の義父で、実力のある主水佑に井伊の苗字を名のらせるようにしたのではないかと考えられる。強力なバックアップの一門として、井伊の傘下に加えたということである。

 

○この主水佑景隆は河手落城の節自身は囲みを脱け、子は武田に降るという家名保存の策をもうけ、蟄居数年で井伊谷に再生するという戦国一流の世渡り上手で、かなり智略に長けていた人物と思われる。

 

○直政の恩人で自身を井伊谷に招いてくれた新野左馬助が永禄7年に戦死すると直虎を補佐、次郎法師の後楯となって今川の外様武将ながら井伊谷の支配者となって行った。河手から井伊の苗字になったのもその頃であろう。今川氏真による井伊谷徳政命令に抗し(小説や物語では次郎法師の直虎が拒否したことになっている)これを無視し凍結して自身及び銭主方や次郎法師及び井伊直虎の権益を保護したが、氏真による更なる徳政令実行を代行者の関口越後守氏経(井伊直虎の父『守安公書記』)に迫られ(永禄11年8月関口氏経書状)表向きやむなく同意したものの、この件によって父氏経側に立った直虎とは袂を別つに至った。ここにおいて直虎は強力な庇護者を失ったことになる。

○まさにこの時期井伊谷は徳川家康の侵攻をうけて大混乱を来し、主水佑は家康側について、昨日まで味方であった直虎を駆逐するに至ったと考えられる(『系譜』‐景隆は家康によって三州、遠州、二十余郷の地頭となるとあり)主水佑景隆は直政が家康に仕えて出頭をはじめても、直政に臣仕することはなかったが、子の良則(主水)が直政に仕えた。この時には既に河手の本名に還っていた(『系譜』)と考えられる。

 

○景隆は天正12年72(74とも)才で世を去るが、子息の主水良則はおか江(高瀬姫‐春光院)を従えて直政に仕え、その姉を妻とする由緒を以て井伊家第一の老臣となり、彦根河手宗家初代となっていった。

(のち河手宗家は断絶。江戸に続いた川手の庶流分家六家は宗家再興が一族一党の大悲願(家格上昇が眼目)であった。この夢は幕末井伊直弼の配慮によって実現するが、この時、新野家と河手家の深い縁の糸は再び強くつながる。幕末再興された新野と河手両家は幕末直弼なきあと悲運の井伊家を陰に日なたになって救ってゆくことになる。)

 一以庵主の存在確認

       (彦根龍潭寺行)

 

彦根龍潭寺にて

北川老師と共に

 今回雑秘説書記に続いて発見された更なる新史料『河手家系譜』中に記録された井伊直虎及び井伊(河手)主水佑景隆に係る本来の考証筆記者は河手良恭と一以庵主という人物である。河手良恭については明確な田辺藩士としての経歴がわかっている。

しかし、一以庵主は沙門としての庵主名が伝えられるのみで『河手家系譜』中にも確実な実名は勿論、行動記録も乏しい。概略は前項に既記したが、このたび碑(墓)が彦根龍潭寺にある旨記されてあるので、その存在確認のため龍潭寺を訪ねることにした。平成二十九年四月二十三日である。

住職の北川宗暢老師とは電話でお話ししたことはあるものの初対面である。予約なしの即日であったが、快く応じて下さった。

どこかでも書いたが、龍潭寺界隈、佐和山城跡から大洞山、愛宕山あたりは少年時代の冒険・探検の場で、宿題はもちろん勉強など放ったらかしで、弁天さんから佐和山をこえて五百羅漢の天寧寺迄、一気に峰から峰を走り廻ってケロリとしていた。印象的だったのは佐和山城本丸跡へ至る龍潭寺裏墓地の中段辺りで、巨大な蛇を見たことである。堆積した落葉の重なる土の中が大きくうねって、それはかなり早く山道を斜めに横切って下へ行った。青大将の大きな奴でびっくりした。あんな大きなのは以来みたことがない。

河手氏の墓は今もその頃と変わらぬそのような場所――山腹にある墓群の中下段辺りにある、そこで宗暢師と一緒に探してみたが、一以庵主の文字が読めるものはみつからなかった。無縁の状態で、墓たちはお寺にお守りされてはいるが、「もう、ひっくり返った石(墓)は建て直せませんヮ」と老師。まことに尤もと思った。歳月による風化転変は激しく、無常迅速である。どこかにあるに違いないが、時間の関係もあって今回はともかく諦めるより他なかった。

 以前訪れたのはいつであったか。もう忘れたが、長い歳月を経て、次が河手氏の調査というようなことで来ることになっていたとは予想もしなかったことである。本堂を案内してもらって応接間に通され、そんなことをとりとめもなく考えていたら、老師が、過去帳に庵主のような戒名がたしか、載せられている個所をみたと教えてくれた。

 墓がみつけられなくても、過去帳に所載されていたら、それで龍潭寺に墓碑が存在したことは事実となる。つまり存在証明は成立したことになるのである。問題の過去帳を拝見すると、「寛文七丁未年」の所に

古道一以庵主 二月二十三日

         河手氏

 

と、ある。この七年のところには鈴木、吉用、牧野、そして抹消されているが菅沼郷左衛門の妻女か、とにかく井伊家士歴々の苗字がみえる。一以庵主の出家法号は右の如くで、正しくは冒頭に「古道」という二字が加えられていたのであった。ただ、ひとつ相違があった。庵主の死亡日である。『河手家系譜』では二月三日となっている。系譜も過去帳も書写されて来たものであるから、いずれか正しいかわからない。墓石の文字も歳月の経過で荒れているから、確認がむつかしい。ともあれ一以庵主の存在と亡くなった年月は明確になった。いまはそれで十分であると思われた。(住職の北川宗暢老師には始終のお世話に預りました。厚く御礼申し上げます

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