秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって)

——  贈答事情から窺われる明智光秀の人間性 ——

(四)懇情溢れる光秀の手紙

 

 この時期にもう一つ、光秀の守勝に対する懇情溢れる書状がある。

 光秀自筆とみなされる手紙である。以下に紹介して釈文解説する。

 

(読み下し)

来意の如く 無音に送り候 高天神落城の刻 飛脚相入るべく候の処 御暇下され去月上旬より 

両丹在国私用取り詰り音問を遂げず慮外候 ついでの砌 この旨家康へも申し入らるべく候 

近々安土御参之由候 其方も定て供奉たるべく候 条かたがた〇〇〇候 

ここもと用所の儀申し越さるべく候 猶以って遠路飛脚喜悦候 恐々謹言

惟任

卯月晦日 光秀【花押】

木俣清三郎殿

 

 旭日の如き勢いの「惟任将軍光秀」の書状である。

 文中「家康」を呼び捨てに扱っているところ、前記したが、格は格として、地位を明確に示している。意訳以下の通り。

 

 

 

(意訳)

 問い合わせの通り無事に送っている。

 高天神城が落ちたと聞いた時(落城天正九年三月二十二日)祝意の飛脚を送るべきだったのだが、ちょうど先月(三月)の上旬から丹波丹後両国出張でいろいろ多忙に紛れ、思うに任せなかった。このこと家康へも言っておいてくれ。

 ところで近々安土信長公のもとへ御参の由だが、おそらくお前もお供して参るであろう。何かあれば言ってくれ。

 わざわざの手紙うれしいぞ

                                                    光秀

 

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あら楽や

              人を人とも思はねば

                            我をも人は人と思わぬ

 

 

 こんな乱世に実は光秀の人生はむいていなかった。

 豪気である反面、あまりにやさしく繊細にすぎた。

 そして本能寺である。光秀は倒れた。

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明智光秀書状

のちに井伊家の重臣となる木俣清三郎守勝はもとは徳川家康の直臣であった。彼は一時光秀の幕下にあり、片岡城や神吉の城攻め等で数々の殊光を樹てた。木俣は天正九年、家康のもとへ帰参したが、本品はその直後の光秀の手紙である。文中高天神落城のことや家康を呼び捨てにしている等、当時の状況や光秀の威勢が手に取るようにわかる重要な資料である。