①断定の史料検証がなされていないまま、史学上定説化されてしまっていること。

 

②『井伊家伝記』は江戸中期に書かれたものであるが、そこには善意の作為・虚構がある。

にもかかわらず、近頃の史家がこれを信じ史料採用したこと(但、この書冊にさえ直虎の名は出てこない―短絡)。その結果「井伊直虎物語即次郎法師」のことは殆ど全てこの書冊を典拠としてしまった。

 

③永禄11年8月4日付、「関口氏経」より「井次」宛文書中「井主」を井伊家の当主とし、「井次」と同人、すなわち次郎法師還俗後の井伊次郎とし、同年11月9日付関口氏経、次郎直虎の直虎を次郎法師の後身「井次」すなわち井伊次郎直虎とした。

結論的には

次郎法師=井次=井伊次郎=次郎直虎 とされてしまっている。

​(事実は、次郎法師と次郎直虎は全くの別人である)

 

(以上は一通しか伝存しない井伊直虎文書をもって、想像的に二人の人間を一人につなげてしまった短絡的誤解、勘ちがいの結果である。)

(平成28年12月30日)

ドラマには関係のない

近年定説化の井伊直虎=次郎法師説の大きな問題点

歴史の真実―井伊直虎新史料をめぐって

歴史の真実はただひとつしかない。

これまで関係記録数点を以て推測の範囲にとどめるべき史料判断を、史実的に論文等に断定広布されてきたことは、それらに係る人々の執筆や説明の部分の分量の大小厚薄にもよるが、いずれにせよ発表そのものがその人の客観的信用性のある職名地位の名を冠して行っているだけに影響力が強い。更に近頃はメディアの伝達能力が大きく、次第によっては事実を左右する力があるから、大衆にはより多くマスメディアに登場して発言する人の事柄内容の方が、地味に真実を伝えようと作業している者より、より正真を語っているように判断されてしまう。これは困ったことである。

今回の井伊次郎直虎の一件も、歴史の基礎的知識があり常識のわかる人々は、わずかな史料の部分発表でも、それが事実か否かは本能的に判断されるが、それはやはり少数派である。本をたくさん書いている人のいうことはまちがいないのだ―などという単純幼稚な先入観で、ことの真否を認知する人の方が絶対多数であるというのも現実である。

井伊家の間違った内容の歴史がいつの間にか「史実」とされてしまうことは実によろしくない。井伊家のゆかりの者は、確実性に乏しい歴史物語を史実のようにしてしまう史家のことばの上に乗っかったり、あるいは乗せられてはいけない。幇間のごとき振舞いをしてはならぬ。後孫として黙止してはいけないことは、正々堂々と正しい史実を公表しなければならない。井伊美術館は正にそのような責任ある立場にあると思うのである。

 

現時点で明確になっていることを簡略に記しておこう。

①井伊次郎直虎と次郎法師尼は別人である。

②次郎法師は半僧半俗の態をなした、武器商人兼高利貸の瀬戸方久に全てを握られ、権力的なものは殆ど喪失していた。あったのは、地方名族の落魄した出家―これが真の姿である。

③従って、井伊直盛あるいは直親の「家督」など正式に継承していない。そんな規式ごとはこの時の井伊氏に遵行している暇も余裕もなく、また公認性も支えられていなかった。井伊家はその以前、正式にいえば断絶していた。それゆえ駿府から井伊谷総督、シンボルとして井伊次郎(直虎―関口氏経の子)が派遣され、実際は新野左馬助が軍政共に代理代行したのである。

④次郎法師や南渓たちは井伊直政の家康初見の時、何も行動をしていない。実務的に企画行動したのは松下一族である。小袖を贈ったという話は後代の作為とみられる。

⑤次郎法師が実際に世話をしていたら、聡明な直政の記憶の中に恩義の思いがある筈だが、そのようなものは一切なく、子孫への申し送りも存在しない。新野左馬助の娘たちに対してはのちに直政の子井伊直孝が格別の扶持を報恩として与えている。(井伊直孝書状)

⑥直政幼時の世話人は他の人々がいた。しかしその数はごくわずかで、殆ど孤独な直政を見舞う人はいなかったと新史料は伝えているし、逃亡ルートも明確である。次郎法師や関係寺院は係っていない。

⑦次郎法師は晩年、龍潭寺の一隅で当初母と共に住んでいたが、その死に際し、葬儀費用にも窮した。勿論本人も貧窮の生涯を終えたがその期間は長く苦しいものであった。龍潭寺領を寄進していたのが事実なら、このような晩年の生涯はない筈である。次郎法師の寄進状は代々の追認事項の履行と考えられるが、宛所が寺ではなく個人の南渓になっているのもいぶかしい。

⑧あのころ(今川より派遣の井伊直虎時代)井伊谷の実質的権限を握っていたのは瀬戸方久という大金融ブローカーであり、それと結託していたのが関口氏経書状中に登場する「井主」なる人物である。この「井主」について、はじめ小和田氏は井伊次郎直虎のこととし、のち阿部浩一氏の井伊主水佑説に傾いているが、二方ともその井伊主水佑が何者かわからずに名のみ挙げるにとどまっている。この「井主」は「イノアルジ」ではなく人名の略であるから、「井伊主馬」、あるいは全く異った例とすれば「井上主水」ということもあり得る。井伊主水佑という措定はつまりあく迄推測範囲出ていないのである。推測の範囲を出ない「井主」を「井伊主水佑」と確定論断するのは問題である。

⑨南渓は養子説があるが、それは物語上次郎法師を残された井伊家血縁者の唯一人とするための後代の作為とみられる。寛政譜や当井伊家過去帳には明確に「直平三男」とある。

 

以上、後世の史家が現実の時代に苦節し献身した人物の名を閑却し、その執筆動機に悪意はないものの、史料批判にたえない『井伊家伝記』という江戸中期の私記本を中核的な史料にすえて扱った結果、簡疎な論考が仕上ってしまったようである。そしてそこから伝説物語が次々と生まれてくる結果となった。

このたびのような新史料が発見されなかったら、かくいう当方も先輩の既説に盲従して、作りものの美談を歴史として語り続けていたかも知れない。有難いことである。遅まきながら井伊谷の刊本史料類をもう一度見直し、合わせて新史料を読み解く作業をつづけている。井伊家のものとして、直政の精神をつぐ者としてこの誤りは出来るだけ正しく訂してゆく義務があると心に決めている。ただ憾むらくはこれだけが当方の仕事でないという哀しさである。時間と余裕がほしい。

(平成28年12月30日)

近年の問題点

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