主水墓発見の頃.jpg

昭和40年代、筆者発見報知後、草茫茫の周囲を史談会有志が掃墓した状況

  河手主水の墓をめぐって、

ー創作された墓守の美談ー

井伊達夫

 

​序

 私は今、先般刊行した「井伊直弼史記・若き日の実像」の続篇と、彦根藩確立の英主・井伊直孝と大坂両陣を描いた「井伊直孝軍記」(仮題)にとりかかっている。両方とも私のライフワークの最終的な書き物となる筈であるが、本職の美術館の仕事に係る仕事が、今年は他館への展覧会協力で本格的に忙しくなりそうなので、執筆の方は残念ながら五月雨式になってしまいそうな気配である。

 そんな中で本稿のような一種脇の事柄に時間を費すのは惜しい、勿体ないようなことのように思えるのである。しかし河手主水(良行)の事蹟についての諸々の解明を史的かつ史料的に、巷談伝説、作話を排して処置出来る者は私しかいないと思われる。彼の正伝は我ならで誰がするのか——という気概をもっているわけである。これは最早信念といっていい。

 

 特に最近、その墓をめぐっては、様々な造り事を拵え妄説といっていいことどもをふりまいているらしい人がいることを知らされた。正直放っておいてはいけないと感じた。問題のレベルは歴史批判とまで行くほど高度なものではないが、現代作話の物語が史的事実のように将来扱われるようになっては困る。それゆえに以下にのべる私の文章は、あきらかに正義の意をもって記したものである。読者はそのところを諒とされたい。

 

 

 ***

 

 河手主水良行の墓へくると、何か自らでも不思議であるが、大変気持が静寂になる。日常なのに非日常な気分に浸ることができる。主水の墓前は、私の数少ない心の安らぎの場所であり、その思いは年々強くなってきている。

 

 ところが、2019年の末頃ちょっと黙止できぬ状況に出会ってしまった。主水の墓にいつの間にか「墓守」なるものがあらわれて、その墓域のすぐ前に不正確な主水の履歴と共に「墓守末裔」「小林某」なる自己の名を無遠慮に記した、大看板がたてられたのである。

ここはいわゆる「村中墓地」で、いわば公共の地である。個人の所有地では無い筈だ。そこへこんな傍若無人な記名の立て看板を由緒ありげに立てるとは!これは予測だにしなかった実に慮外千万なできごとであった。

 

 ——近頃、インターネットの拡大のためか日本の歴史に係わる人物が少しでも著名になると同時進行するように、その人物と現代の人文的は様々な事柄が過剰にジョイントされ、存在しなかった物語が真実の如く語られ、——あるいは意識的に作為され、ついには一人歩きをはじめてしまうという傾向がしばしば見られる。

そこには、その人物の生涯や歴史に「歴史ロマン」の有縁者として参加したい——という希望があるのだろう。しかし、その裏にはその手に依って自己ないし自家の宣伝売名を果たし、自己顕示欲を満たしたいという本音が匿されているように思える。そうなると、歴史の事実というものは、本人の都合の良い具合に歪められる。その典型が、こたびとりあげている「主水の墓守」一件である。これは、事実ではない。いまやその事実ではない情報が、インターネット状に公開され一人歩きをはじめている。このことを話した博物館の幹部の人は一様にこういった。「駄目ですね、誰かがとめなけりゃ・・・」

 

 この墓守を称する人物は、己が「大坂夏の陣に臨んだ河手主水良行によって、死後は自身の墓守をするよう直に遺言された者の子孫である」由を多方面にいっているらしい{「シルバーひこね」,”悲運の武将 川手主水”-2003年4月1日刊—”五十楼波宮/河手主水” 南川瀬町公民館ホームページ(以下HP)-南川瀬町歴史研究会 ほか}。

 件の立看板にはその旨の記載はない。しかし看板説明文末尾には「墓守末裔小林某」とある。調査を進めたところ、念の入ったことに遺言を承ったものは他にもう一人「田中」というのがいたらしい。これは悪意的解釈をするわけではないが、話の前後から考えると尤もらしい信頼性を与えるための工作であろうと考えられる。もう少し穿って考えるならばこれは他にもう一人同じ趣旨を承っていた——とする一種の証人補強策である。架空の史的事実を、まことの真実であったと第三者に信任させるための方策であると思える。その証拠か、この頃田中氏のことは、いつの間にか小林氏側の言説からは省略されてしまっているようだ。それゆえ、今後の叙述の中で仮に「田中」の名が登場する場合があっても、前記の私の解釈から、田中に係る考証は省略する。その存在に元来の意味は存在しないと考えられるからである。

 

 井伊氏所属の一己の武人の墓を、誰が「墓守」しようと放っておけばいいことかもしれない。私はその墓守を自称する人に何の縁もなく、もとよりウラミツラミなど更々ない。

しかし最近になって急に立看板を出し、いかにもわけありげに「墓守」の名を挙げたことに、正直、何となく胡散臭い気配を禁じ得なかった。大袈裟にいえばこの「行動」の裏にあるものを「河手家の霊」のためにも調べてみていいかも知れないと感じた。

 墓の主人河手主水(良行)と私との間にはなぜか因縁を感じるものが少なからずある。一部地元の人々や、隣接する田地持ちの人々は知っていたかもしれないが、悽愴の気漲る荒蕪叢林の中から、歴史にも現実にも忘れられていた主水の墓を見出し、筆にのぼせて書物の類に発表した者は、この私であるのだ。

なが年井伊家の史料を収集してきた過程に於て、いかなるわけか手許には、「河手家」の本系譜や関係する「遺品類」がいろいろ集ってきている。これは「因縁」といっていい、不思議な縁である。「その歴史」を「忘却」から「現在」に引き戻した者として、主水のことを正しく伝えてゆくことは一種の義務のように思えるのである。

 これまで私は、彼の事跡を知り、その人物を追慕の念をもって聊かながら書き記してきた。ここに於て断然死者と、その墓の真実を記しておく義務を感じたのは「井伊家の歴史」に勤めんと志す身としては当然であろう。ここは力(りき)んで更につとめなければならない。以下読者諸賢の理解賛同を願うところである。

 

 主水から直々に遺言され先祖相承のごとく「主水の墓守」を云々する小林某なる人の行動は、余り純粋性を感じさせない(この人は墓地内看板において本名と思われる氏名をフルネームで公表しているが、本稿では一応配慮してあえて実名を記さない)。当人が勝手に申し立てている河手主水に係る遺言及び全ての史的由縁も、「正伝」ではない。「作り話」である。しかしながら歴史の門外にある、興味無き人々はもとより、郷土の歴史に興味ある人々も、いまやその「作り話」を信じさせられようとしているらしい。問題はここである。実に危ない。寒心にたえぬことである。早急にその非を訂し、正しいところを記しておかねばならぬ。これは諄い(くどい)ほどいってよい。識者は欺かれずといえども、後世の人はこの「史的作話」に乗せられ信じてしまうこと必定である。善意の人々の被害を予防するためにも、本稿を遺すことは重要であろう。

 

 以下、歴史の無責任な創作、恣意的行為を指摘し、真正のところを述べると共に、合わせて当事者の真率な反省を促すものである。これが本物の「墓守」がなすしごとである。私は主水の墓前に、形だけの徒なる仏華を供えはしないが、このたび記すところはすなわち主水良行に対する、「井伊家の者」が執行(しぎょう)する最大の供養になるものと信じるわけである。

伝河手朱具足.jpg

伝・河手主水良行所用朱具足

(鉄朱塗八間阿古陀形筋兜・鉄朱塗縦矧五枚胴具足)

 

1,河手主水良行について

-本名は河手良行ではなかった-

 最初に、本稿に出てくる墓の主人公である河手主水良行については過去の彦根史関係の拙著の所々でふれているので、ここではごく簡略にその生涯を記しておきたい。

 主水は、彦根藩草創期における井伊家の重臣の一人である。家康の旗本松平康安の三男として生まれ、若年にして井伊家重臣河手主水良則の養子となって家を嗣いだ。これは家康の直命によるものである(実はこの裏に、河手家内で一騒動があったけれども、本論から外れるので今は書かない)。

 大坂冬の陣に初陣。夏の陣には木村重成勢との対戦に突出戦死した。激戦奮闘の結果の如く記したものがあるが、事実は主水自身覚悟を決めた自死に近い戦死であった。この裏には、競争相手である木俣守安と、冬の陣にかれの肩を持った主将井伊直孝に対する意趣がえしによる自尽であった。幸いにして井伊勢はこの一戦に勝利し、敵将木村重成を討ち取ったからよかったものの、主水の行動は一歩まちがえば総敗軍になる危険な一挙であった。時に年歯二十八歳(『河手系譜』筆者蔵)。

子に良富(もう一基の墓主)がいたが、若くして死に、家は断絶した(普通なら養子が立てられて家は続くものであるが、前記のごとく井伊直孝との意趣があって家は断絶した)。

 

 現存する主水の墓標の立つ所は、本来人間が葬られるべき寺社ではない。城下を遠く隔てた不毛の荒林の中である。その墓を守り菩提を弔ってきたのは江戸期にも残り続いた分家の河手藤兵衛家の人々であった。今もその子孫の人々もおられる筈だが、あえて表には出てこられない。

 

 主水良行は、実は万斛の怨みをのんで死んだ。その生涯については、収集した井伊家の多数の正確な史料をもとに、まともに正面から取り組んで筆刻することを、実は主水の霊には疾くから誓ってある。しかしかれの伝記は、今は詳述しない。これにはいろいろ訳がある。ひとつは出典を記さず、内容を平気で剽窃されるおそれがあるからである。引用するのはいいが、典拠を記さず、断り書きもしない者は「著作権」の侵害者であることくらい、モノを書くものは知るべきである。理由はもちろん他にもあるが、これは私自身の問題で今は書かない。近い将来を期す。

 

 尚「河手主水」の姓の表記は、この時代「河」の字ではなく「川」を以て記されることが多いが、維新まで続いた分家・川手氏一族の「河手」姓への回帰の希望を察了し、また幕末新しく創設された「本家河手主水家」の再興の節における表記に従い「河手主水」と統一表記することにした。

 

 また実はこれは大きな問題であるが、河手氏の実名の通字に用いられている「良」の字は初代良則、二代良行らの頃は彦根の史徴には明確ではない。全て後世の表記であって、実名は全く違うことがなが年の調査の末、或る文書記録によってこの度判明した。河手主水「良行」なる人物は、本当は存在しない。判明した実名は全く異なるものである(「慶長十年七月十六日付連署状」——筆者収集井伊家文書)が、本稿では江戸編集の同家系図に従って「良行」で通すことにする。

 考えてみれば、「良行」という実名がかれに冠せられたのはいつからか。本モノの主水の霊は、一体これをどうみていたのであろうか。今後も私が実名を公表しない限り河手主水は「良行」で書かれるわけである。

伝良行着用2.jpg
伝良行着用より刀傷.jpg

河手主水良行戦死の際着用所伝ある朱具足

(-彦根藩士海老江家旧蔵-)

​生々しい刀痕が残る。前掲の「具足」よりこちらの方が時代的には適合する。この具足は、彦根赤備えの中でも屈指の戦傷ある古具足である。海老江家は河手家の縁族である。

2,忘れられていた河手主水父子の墓

 河手主水父子(良行・良富)の墓が所在するのは彦根市の南郊・南川瀬地区である。その地方の公民誌(シルバーひこね 2003年4月1日刊)に、自称墓守小林氏の知人である某氏によって、主水と、そして墓守の由来について書かれた記事が掲載された(該誌は現在も「南川瀬町公民館HP」で公開されている)。

 この公民雑誌の存在は、南川瀬町公民館HPを設立した南川瀬町歴史研究会の某氏による、当井伊美術館HPへのリンク依頼により偶然に判明し、立看板と共に本稿執筆の動機となった(ちなみにこれは2021年春ごろの依頼であり、その時点で確認した限りでは、該HPにおける河手主水に関する記載は、このシルバーひこね、並びに”河手主水墓”項のみであったと記憶している)。

 中身は歴史記述ではなく、気楽な「おはなし」という世界のもので、当然ながら史的な点においてその記述はあまり正確とはいえないものであった。歴史の専門でない以上これはこれで良いのであって、当然なことである。書いた人に罪はない。しかし作られた伝説まがいの話が、このような媒体に掲載され年月を経ると真実的物語に変化し、「事実」となってあちこちを飛んで定着する。「歴史」の怕(こわ)さである。仄聞だが、近頃はどこやら附近の神社で、「主水の墓」その他について、訪れる人々にビラ様のものを配り、誤った「墓伝説」の教化のようなことを行っている人がいるらしい。実際見たことはない噂であるが・・・一応記しておく(「三 歴史常識に反する交誼譚」で再述)。

 

 私が河手主水父子の忘れられていた墓をみつけて、はや60年以上の歳月がすぎたことは4年前の「河手詣で」(井伊美術館HP 前後截斷録第14回、2017年9月4日)のところで書いた。つまり半世紀以上もむかしから主水のことを調べ始め、その後昭和50年代中頃から「井伊軍志」と題して井伊直政とその臣僚群像を滋賀県文化雑誌『湖国と文化』に10年あまり季刊連載したが、その中で河手主水のことについてふれたことがある。のち、これを同名の一本として刊行(1989年6月10日 刊)してから、一部興味のある人々や地域の好事家に主水の名が知られる様になった。

 小林氏の墓守のはなしも、どうやらその頃が発端(河瀬神社宮司氏談—五、「河瀬神社へ」にて後述)と思われ、近々のうちに作り出されたものであると私は考えている。要するに、「現代」である。重複するがもう少しその期を限定的に推定すると、私が主水の墓発見の旨を彦根歴史談会の先輩であった某氏に告げ、さらに前述の通り「井伊軍志」として『湖国と文化』に長期連載の後、それが一書として刊行されて以後のことである(これは余談ではあるが、最近同氏と思われる人物が係ったと思われる「小林」氏或いはその縁族方の歴史書類並びに叙述が、南川瀬町HPに追加掲載された—「茂賀山城主 小林家の物語—南川瀬町研究会—」南川瀬町公民館HP 2022.01—。確認したが、それらの信長や島津義弘によるものとされる文書類は実物をみなくとも不審を感じるものである、つまり紛れなき書き物とは断定しづらい)。

 

 更にもっと下って、如上のことがらが、2016年に放送された大河ドラマ「おんな城主 直虎」における私の井伊直虎新史料発表(2016年12月、2017年4月記者会見-内容は当館HP参照)で、主人公の直虎に関わる人の一人として「河手氏」の名を私が紹介し、それを公にした時期(「井伊直虎の真実 上・下」——2016年7月1日刊)からであるとも考えられる。

 余談だがその頃、「河手」や「川手」姓の人々がいろいろ連絡をとってくるようになった。大概は礼儀を弁えた人であったが、歴史に携わる者として、河手関係者として、ひとりだけ常識外の恥ずかしい非礼な人もいたことはたしかであった。近頃歴史を調べ、モノを書く人の中に常識を欠く人がふえてきたのは事実で、残念なことである。

 
伝河手朱具足より刀傷.jpg

主水所用伝具足より、兜部拡大写真

頂辺に刀痕あり。いわゆる赤備の兜である。

 これからのべていくことは、「事実」を書きたいだけである。あくまで誤謬を言挙げして非難する目的で書くのではない旨を承知いただきたい。この場合の「事実」とは、その言説が江戸期以前に記されたもので、現代の史料批判に十分に耐え得る、明確な歴史記録に拠って来る「事柄」を指す。

 

 放っておけば、虚説がやがて真実と化す。多分後出来の資料文書も、これからはいろいろ登場してくるであろう可能性も考えられる。後世の、善意の探求者のために誤った歴史の道標は取り除いておかなければならない。河手主水が講談的にもてあそばれてはいけない。

 

3,歴史常識に反する交誼譚

 さて、ここで「主水墓守」を任ずる人に訊ねてみたい。末期に墓守の遺言を託されたという事実が書かれた、第三者的な客観的史料や記録等は存在するのか。あれば何処に在るのか。 それは勿論その当時のもの、ないし江戸時代以前の正統な古文書記録類のことである。藩の古記録その他河手家伝来の文書史料、あるいは河瀬地区の河手氏に係る古い庄屋記録等である。

 

 この質問は本稿の叙述展開上あえて設けたものであって、返辞を期待してのことではない。その答えは私自身もう既にわかっていることである。要するに、明実なたしかなる古記録はどこにも存在しない筈だ。存在すれば今以て埋もれているわけがない。郷土の本モノの史家が、放置しておくわけがないのだ。

 あったとしてもずっと後代かあるいは現代の筆字で、創作の文言を並べた上質でない書き物であろうものと思量される。つまりその為に拵えた「あと出し」のものであり、一見するにも値しない筈だ。それは後述する「刀箱」の箱書のレベルをみれば、十分に察知される。そのようなモノが追加出現してくる可能性が残されているとはいえ、該当する時代の用紙の紙質や、用語用字、筆跡の墨の調子等は多少でも古文書を勉強した研究者がみれば一目瞭然たるものであるから心配には及ばない。

 

 そもそも、本稿の大前提として。主水の墓の場所、つまり現在存在する南川瀬大三昧の墓域は、主水生前にかれ自身によって選定されていたものではないということを知っておく必要がある。大三昧の墓地は予定されたものではなく、懲罰として指し置かれた郊外墓地である。この裏には直孝の怒り、主水の遺恨がある。このことについては後日一篇を草するつもりであることは既に述べた。要するに主水良行、そして子の良富の墓の現地における存在は、両人にとって実は大変心外な事実なのである。良行や良富におのが墓地のことを云々にしている気配りや、暇(いとま)、そして余裕等は全くなかったというのが実情であったのだ。

 

 小林家の先祖はその頃、つまり主水存生の時代何処に住していたのか。おそらく推察するに、その家系が連綿していたとするならば南川瀬近辺であった筈である。そしてその身分は庄屋階級などではなく、われわれが呼称するところのふつうの「百姓」ではなかったか。歴史用語でいうところの「被官百姓」のながれ、いわば水呑クラス(歴史表現であって決して差別を云っているのではない)ではなかったか。

 小林氏一統の先祖に係る記事(「茂賀山城主 小林家の物語—南川瀬町研究会—」南川瀬町公民館HP 2022.01)については前述した。これを読むと川瀬地区茂賀山に住した小林氏が、墓守り同氏に係る先祖に縁があるかの如く記載されてあるが、その真偽の程は知らない。また先祖が彦根藩士であったかの如く記載されてあるが、その名も、『彦根藩士族譜(筆者編)』には存在しなかった。ちなみに在郷の士—郷士—は彦根藩には4家のみで、そのうちに小林氏は存在しない(彦根城博物館副館長・渡辺氏示教による)。

 同記事には大坂陣の時のものとの由として旗が掲載されていたが、これは正真の四半軍旗とすれば江戸中期以降のものである。関ヶ原大坂陣の頃の井伊士軍旗は、経眼2点のみであり、その形式は全く異なるものである。かかる歴史記事は本件に係る限り、あてにならぬものが少なくない印象を受ける。

 もし仮に小林家の縁族が彦根藩と関係できていたとしても、その身分は陪臣(またもの)であって、正式な藩士ではなかった筈である。上記の通り、彦根藩の藩士関係史料には、管見の範囲では登場しない。つまりこれは井伊家の直臣ではなかったということを意味する。

 いずれにしても身分制度時代に拘る人々は、家系伝説を善意で膨張させる傾向がみられる。しばしば私のところへも先祖は彦根藩士で、足軽大将をつとめていた由ですが調べて下さいといった要望が寄せられたことがある。しかし大抵は単なる足軽身分で、「大将」はのちの子孫の思い込みであった。まず一軒もなかったような記憶がある。

 

 これは重ねていうが、決して同家の先祖を貶めるためにいうのではない。主水との身分格差をいうために、書くのみである。当時「百姓」は一部の名主級の農民を指した。一般の小作以下は「百姓」とはいわない。前述の如く「水呑」あるいは単に「下人」といわれた人々である。侍に会えば匍伏(ほふく)、膝行、叩頭あるのみで発言など出来はしない。

 武将と兵卆及び人夫(下人)との身分、待遇格差は現代人の想像が及ばない程甚だしいものがあった(参考『戦乱と人物 高柳光樹寿博士 頌寿記念会編—塚原卜伝を囲る諸問題・進士慶幹—』 吉川弘文館 1968年刊)。そんな時代に、木俣守安と共に井伊家臣の双璧、一方の大将と称しても良い河手家の当主に、これら小林家の先祖が昵懇の地位を得ていたとは、歴史の常識上あり得ない。「滅相もない話」——である。

 成程、主水の知行地はこの辺り一帯がそうであった。しかしこの時代の家臣と知行所の関係は、主水のような地頭(当時の知行主)が知行地内の百姓を人夫・人足として使うことができたが、それは補助戦力としてではなく、あくまで労役用の人足、いわば牛馬代りであった。これは厳しい労務であり、大阪両陣のあと、井伊領内の百姓たちがたくさん欠落(かけおち)逃散している事実からもそのひどさが想像される。地元の百姓衆との親睦なつき合いはまず殆どなかった。むしろあってはならぬことであった。因に彦根藩井伊家初政における家臣の知行所での施政についての基本は、「諸給方仕置状—慶長六年十一月—」に詳しい(『新修彦根市史』所収—筆者蔵)。

 

 井伊家の場合、領内を三筋に分割した筋奉行によって各地行所の行政や司法の監察がなされていた。高禄の重臣といえども知行所内の百姓連中を恣意的に差配成敗することはできなかった。本稿で扱っている時代は藩領十五万石の時代であるから、まだこのような明確な制度は策定されていない。しかし、領内支配の分割的施政の萌芽は萌していたことは十分に推測される。

 

 幕政初期のこの時代、井伊家武士における農民たちに対する姿勢は、苛斂誅求が常態であった。家士の百姓に対する非分を前記『諸給方仕置状(慶長六年十一月)』は厳しく禁じているが、これは逆にいえば非分非情の振舞いが日常的に百姓たちに対して行われていたことを証しているともいえるのである。

 当時の井伊家士らの農夫たちに対する暴虐の数々は今にいろいろ伝えられているが、その最たるものはもと甲州武田の家士であった河野六兵衛の残酷である。かれは農民が一言でも意にそわぬことをいったら一刀のもとに殺害し、その刀を田の水であらいながら、口答えするものはこうだといって生首を放り投げたという。「六兵衛の抜身洗い」といわれ百姓たちに恐怖された残虐な振る舞いであるが、別段それが上司によって取り締まられたという形跡はない。当時は井伊領内の何処でもこのような殺戮が常に行われていたものであった。

 因みにこの六兵衛は大坂陣で、河手主水の組下として働いている。主水良行はこういう百戦錬磨、一筋縄ではないかない曲者たちを統御してゆかねばならなかったのである。

 

 石田施政が終焉してわずか15年あまり、井伊家の士衆はいまだ庶民になじまなかった。かれらは甲州武田軍の血をひく異域からきた恐ろしい進駐軍にすぎなかったのが「事実」である。もし地元の耕作従事の人々が慣れ親しみ追慕した身分ある人があるとすれば、旧領主の河瀬氏(井伊氏入部以前、石田三成の所属にあった国人衆)やそのゆかりのあった人々であった筈である。

 

 このようなことは今更念押しをして語ることではない。歴史の約束事を知らない、あるいは知ろうともしない人々は、名将豪傑譚伝説の名を藉りて、ともすればいかにももっともらしい人情噺を創作しにかかる。

 歴史の道理道筋は、そんなに甘くはない。これも小林氏らが唱えていることだが、井伊直孝の初陣を助けるために河手主水に「河瀬隊」などといった百姓部隊八十人が附けられ、卆いられていったなどという勇ましいはなし(「郷土を知ろう会」項「ふるさと河瀬—郷土探訪の 2001年2月刊」南川瀬町公民館HP 2022年1月公開)は、創作である。井伊直孝はそれほど自前の軍勢に困ってはいない。井伊家の陣場を借りて手柄を立てようと図る、身分ある浪人たち(これは侍である)も断るほどいたのだ。仮にあったとしても、全て夫役であり、真実は牛馬がわりであった。当時の百姓下人たちの血の涙を知らない、無知な現代人が拵えた講談であって、百姓下民層の被虐の歴史を知らない御伽噺であることを、われわれは「歴史」への反省の思いをもって考えなければならない。

 余事ながら、関係資料を当学芸員が調査中に偶然、一般ブログ記事から以下の様な記事を見つけた。該ブログ筆者によると、河瀬地区の寺社を訪れた際、近隣の者から河手主水の墓について、小林氏が唱えている説とほとんど類似した内容が記されたプリントを配布されたという。その旨と内容の一部の写真は2018年の該記事で確認された。個人の方のブログのため、写真の掲載及びブログ名の明記は避けるが、今もインターネット上で確認ができる(2021年11月時点)。また、現在南川瀬町公民館HP「郷土を知ろう会」項(「ふるさと河瀬」—2001年2月発行 郷土探訪の会)にて、プリントと同内容と思われるページ(第8ページが該当する)が掲載されている。善意の人が善意の人を知らぬ間に欺いている。その根本、背後にあるものは何か。何と不気味なことではないか。

 

 話を戻すが、これで河手氏と知行所方の百姓との係りは十分に推察了知されたと思う。河手主水良行と大三昧近辺、南河瀬の今でいうお百姓さんとの「交流噺」は、ずっとのち、現代に入ってから、それも僅々数十年以前に生みなされたと考えるのが自然である。

 

 主水が討死の前に遺言を託すべき人物は、周辺にいくらでもいた。実父松平石見守康安はじめ、その家族、そして近臣及び主水の組下従士たちだ。その数は決して少なくない。遺言や死後の墓のことを託す人物には全く不足しないのである。何が哀しくて、主水のような藩中に聞こえた男が水呑や下人(当時の呼称である)に死後のための遺言を託さなければならないのか。まして新封の知行地の身分の異なるものに、後事を託す必要があろうか。

 主なる家士や従士たちの名も、史料を保存している筆者方では判明しているのだ。それが哀れにも「河手主水良行は、地元のお百姓に死後の墓守を直々に遺言した」とは、まことに、まことに畏れ入るしかない。

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河手家系譜』表紙

 客観的に事実を辿っていくだけでも、取り上げられる主水にも申し訳ない陋説であることがわかるだろう。これも封建時代の常識を知らない後代の人々の、冒頭に掲げた「自己顕示欲」から生じた幼い作り話にすぎないのである。

 ある人物が、己一代限り、誰にも知られずに自己満足としておこなう範囲のことならば、ここまで両断するほどのことではないだろう。だが、代々主水の墓守に任じているような由緒噺を勝手に拵え、共用の村中墓地に自身が「墓守末裔」であるとあたかも専有地のごとき看板を立て、さらにそれを永劫真実が如く積極的に吹聴してまわる——こわい事に、このようなプロパガンダ的一種英雄交流譚は、現代においてはインターネットにのせられ一瞬のうちに国内外に情報拡散される。真実のように思われてしまう——これは、真摯に生きた過去の人物、もののふへの許されぬ冒涜であると考えてしまうのは行き過ぎた言説であろうか。

4,刀剣贈与譚の不審

 河瀬の農民であったと思われる小林氏の先祖及びもう一人田中某の両者は、大坂夏の陣討死の直前、主水より墓守の依頼と併せて、遺品として一振の刀を与えられたという。そして刀は錆身となって河瀬神社に在るという(調査を進めるうちに、遺言依託並びに刀剣受取人に関しては他の存在も現れている。新説が複数創作されているのか真偽は不明だが、当方が沙汰する話ではない。本項では2021年3月頃に南川瀬町公民館HPにて確認した「シルバーひこね」の内容、並びに同年4月に河瀬神社にて確認した箱書の内容を踏まえて続ける)。これはその子孫の一人、現に墓守を自称する人物及び一部の知人等が唱えているところであるが、ここに第一の誤りがある。

 二人に対して一振の刀というのは、その刀の「贈与」そのものが百歩ならぬ千歩譲って、仮りに事実であったとしても、常識の外である。まさか外郎(ういろう)や羊羹でもあるまい。刀を半分に切断して持ち合うのであろうか。

 

 因みに刀剣の史話伝説の調査考証は私の研究領域としているところである。本稿末尾に〈補記〉として記載した論文等は先年刀剣研究専門誌である『刀剣美術(日本美術刀剣保存協会刊)』に発表した、その主たるものである。井伊美術館HPにも一部掲載しているので、この際興味ある方の一読をお奨めする。

 

 当時の刀剣武具贈与の対象は侍身分の者に限られていた。鎧や兜、はたまた刀、脇差などの武具の賞与を受けたり、託されたものは侍だけである。仮に百姓地下人に何事かを託し、そのみかえりに何かを賞与することがあったと仮定しても、贈与は銭貨であった。上級武士は、百姓身分の者たちに武具は与えないのが作法であり、常識であった。

 

 墓守とそれに関わる刀剣贈与説が妄説であることは疑うべくもないが、その刀はのちに「河瀬神社」なるところに寄進されたという。これは冒頭にのべた地元の交流会報誌や、前述したプリントに載せられてある。面倒であるが本稿の構成上取り上げた方がいいので、此の上はいったん、この話に乗ってみようと思った。

 

 刀の贈与譚そのものが当時の侍常識としてありえないものゆえ、笑殺してとりあげる必要もないのであるが、考えればここにも何か不審の作為が感じられる。まず、刀そのものを確認する必要があろう。これは一寸面白いことである。この先にも、何か不審の作為があるのではないか——という期待すべからざる期待である。要は何処かに真実が認識されればありがたいのである。

 

5,河瀬神社へ

 河瀬神社は彦根の南郊にある。いつごろ創祀されたかはわからない。現今の「河瀬神社」という呼称になったのは明治に入ってからである。それ以前は「川桁神社」とか「桁の宮」などと称されていたという(「広報ひこね」、『神道大辞典』より)。つまり江戸時代は「河瀬神社」ではなかったのである。この神社名の創始の時期は次項で重要になってくるので読者は記憶しておいてほしい。

 

 河瀬神社に連絡すると、宮司氏は気楽に応接してくれた。刀はあるという。しかし「私はまだみたことがありませんが」と附け加えた。電話で話をしたときは何も感じなかったが、近日の訪問を約して電話を切ってからオヤ、と思った。いまだみたこともないのに、なぜ存在することがわかるのだろう?

 

 神社を訪問したのは、2021年4月2日である。神社の集会場のようなところへ招かれると、目の前に木の箱(写真参照)がおかれてあった。当方は井伊美術館の主任学芸員である中谷と二人である。はじめは神社のおみくじ用の箱かなと思い注意を払わなかった。中谷の印象も同様であったらしい。

 

 宮司の奥さんらしい人が応対されて、来客中なので主人はあとで参りますから——ということであったが、大分時間がかかった。その間奥さんと対話しているうちに、そのおみくじ箱のようなものが刀箱であることを教えられた。「拝見してよろしいでしょうか?」「——どうぞ どうぞ」

 それは掛軸用の外箱をやや大型にしたような、しかし造りは荒っぽい、正直いって粗末な木箱であった。

 
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河手主水下賜の刀を入れたという問題の刀箱(河瀬神社寄進品 同日撮影)

 これに刀剣が入っていたとすれば、その箱の寸法からみて刀種は「脇差」である。一般的に脇差の長さは刀身30cm以上、60cmまでである。それも入れられていたのは、拵を欠いたいわゆる白鞘(正しくは「休め鞘」と称す)であっただろう。

 

 奥さんの言葉に従って見てみたが、箱の中はカラッポである。おまけにもう片一方の蓋はなくなっている。つまり苦労せずとも中身はカラであること瞭然である。

そのことをいうと奥さんは、別にびっくりした様子もない。主人が(刀は)どこかへしまっているンでしょう——といった程度の挨拶である。

やがて旦那さんである宮司氏が帰って来た。やや太り肉(じし)、中背、年齢は七十九歳の私よりは上かもしれない。この際年齢は関係ないことである。顔色いささか黒く、渡された名刺をみると、裏面に色々肩書きがある。いわゆる郷土の名士である。御本人もいろいろなところに顔が利くようなことをボソっと呟いた。

 早速主水の刀の件に言い及ぶと、あ、どこかしまってたナ、どこやったかな——という具合の様子。そして庫にあると思います。ご一緒にこちらへ——と神庫の方へ案内された。庫の扉をあけて、神輿の轅(ながえ)のところへ行って、ここです、ここや、ここにおいといたんやが、あれ、おかしいな、ないな、どこへ行ったやろ・・・。

 

 中は薄暗い。みこしは庫の向かって左方にあり、私たちは右側から壁に沿って中へ這入ったが、氏は慣れた様子でさっさと庫中をくだんのみこしの方にゆくと、ナガエの元の方をゆびさしここですにゃ、ここにいつもおいてるのやが、あれ、どこやろな、あ、息子がもって移動さしたんかナ?いつもここへおいてますんやわ、変やな、やっぱ息子かな・・・。

 

 宮司氏は刀の所在が不明なのに、案外落ち着いた様子で、あれやこれやと呟き、携帯電話を頻りに耳へつける。——息子さんに携帯電話が繋がらないらしい。一回息子が帰って来たら聞きますわ——

 どうやらこれが結論らしい。どこかにある——ということを氏はいうがはっきりいって一寸頼りない。少しもあわてていないのも妙である。当方はまるで狐につままれたような気分。——

 結局そんな具合で「主水所持の刀」なるものには対面できなかった。実の処、ホントに寄進されたというカタナは存在するのか、刀剣の伝来由来はこの際別問題である。本式の由緒ある刀剣の贈遺は無かったことである。今問題にしているのは、作話上の寄進刀剣は現存するのか如何(いかん)か——である。

 以前此の刀をどこかの誰か5、6人のグループに見せたという。どういう人々でしたか、とグループの人々のことを聞くが、そこから先の記憶はない。「わからない」5、6年前、いやもっと昔かな。どうやったかな・・・。わからない。——

 

 因みに河瀬神社の刀剣のことを初めて聞知した頃、彦根城博物館の幹部の方に確認したが、少なくとも博物館の認知するところではなかった。勿論小林氏のことやその縁族の資料のことどもも。

 

 そもそもこの刀は、小林なる人からいつ頃に寄進されたのですか、と問うのに、ええと、20年か、もうちょっと前かな、ま、20年くらいですナ。小林さんの先代さんがもって来た、——というはなし。

 この時に私はあるいは寄進はもっと前かなと思ったりしていたが、案外に近年のことであることがわかった。となると私が主水の墓を既述のごとく滋賀県の文化季刊誌『湖国と文化』に『井伊軍志』として紹介し、さらにそれを1989年に公刊したあとの出来事である。古いことではなかった。

 

6,神社寄進「主水刀箱」の始末

  さらに箱書は刀の「祟り」について語っているが、「祟り」は生前の意趣、遺恨に係って生じた果たされない死者の恨み、あるいはタブーを犯したものに対する神佛の思いが変容して現前する。仮に主水から藤八某に、墓守を依頼する意味をこめて正当に与えたものであれば、主水がその家の者に祟るなど言語道断ではないか。筋違いというものだ。「祟り」の意味が全くわかっていない。主水良行はそこまで血迷った漢ではない(これは、虚譚の上の空しい仮定であること勿論である)。

 怨霊の祟る対象は無差別ではない。対象が大きい国や施政者であれば、その者たちへ全体的報復行為として現れる。つまり「菅天神」のようになるが、井伊家老西郷家の怨霊(井伊美術館HP「前後截断録 第31回 西郷家の怨霊」2019年3月18日)のように一家族に係るものはその範囲にとどまるもののようである

 この場合、主水遺託刀(というものは歴史事実としては実際には存在し得ないが)が、与えられた者達に対して「祟る」ということは、わかりやすくいえばその「怨霊」が、かれ自身でルール違反をやっていることになる。まるでお笑いだ。手間暇かかる話ではあるが、このところは蒙昧をひらくために真面目に記しておかなければならない。全てが看破しやすい虚構譚である。

 

 ところで「刀箱」なるものも、このような事実が判明してしまうと、更に粗末に扱われてどこかに姿を消してしまうおそれがある。更にもっと異なる意味でこれを邪魔とする人間が出てくるかも知れぬ。そうなると「証拠」は消える。注意しなければならない。粗製ながら本稿の主題証明に係るひとつの大切な証拠である。本稿が発表されると、或はいつのまにかこの刀箱は紛失の祟りを招くかもしれない。なぜなら主水拝領の刀を収納したとするこの箱は存在しない方がいいという関係人物が在るであろうから。その意味でもこの木箱の箱書は重要である。話を作って奉納した者の裏の心が明々白々に窺える。この箱が理由なしにどこかへ消失してしまったら、それは事を図る人物が行った一種の「犯行」だと看取されたい。この「刀箱」なるものは、このような歴史創作話の重要証人である。その意味で「神社方」の人々は、一種負の遺産であるかも知れぬが保存に関しては注意を払っていただきたいと思う。要は神社さんのその意思次第である。ここは「正義」を問うところとなる。

 

 結論として刀は存在せず、ただ事実無根、荒唐無稽な箱と箱書だけが残されていたのが神社訪問の顛末であった。しかしこのこと、今は笑っていられるが、拙稿がなければ「ことがら」は事実化され後日にはよき人々にそれこそ本当に祟る。以上善意の歴史人のために認めておく。

奉納太刀一振

小林太吉

田中惣吉

大阪夏御陣井伊掃除頭家老河手一騎討

帯ビタル刀家来藤八ニ授ケ死後墓守ヲ命ス

藤八受ケテ后(後)祟アリ弟田中家ニ保管セシム

田中家祟ルコト屢(ア)リ故ニコレヲ産土神河瀬神社

ニ納メ除災ヲ祈ルト云ウ 前箱銘寛政元正月トアリ

                               (カッコ内、傍点筆者)

井伊家短刀箱.JPG
葵紋刀箱.JPG
刀箱問題箇所.JPG

一般に「御刀箱」と称される刀箱の例

(井伊家及び将軍家よりの品——筆者蔵)

 本稿主人公、河手主水所用の刀が入っていたのが、先刻、私達の眼前におかれていたいわゆる「刀箱」だった。

 ところが、この刀箱なるものが、先にもいったが私たち研究する者からみると大変な粗製で、どうみても「御刀箱」にはみえない。

 刀剣の研究に多少でも係る者としてどうしても言わざるを得ないのだが、河瀬神社蔵の刀箱は、猪突きの粗製の槍でもこんな箱には入れないだろうと思われる代物である。また箱の周囲には何やら御丁寧にも墨書が施されている。いわゆる「箱書(はこがき)」である。これがまた大袈裟である。

 宮司氏には気の毒であるが、このことは戦国〜江戸初期の武士習俗、地方の歴史の真偽に係るものゆえ、言いづらいが真正のことは記さなければならない。墓守なる人物の家から寄託されたと称するイワクつきのものだからなおさら真否の探求は必要であろう。

 

 刀箱なるものに墨書された文言は以下の如くである。

 箱書によると、この箱以前に古箱があったやに記されているが、私には、これは眉唾であてにはならないと思われた。箱書のもとになる寛政期の箱に、以上の墨書が先行して存在したようにいっているが、この手の作為は「手垢のついた作り話」の初期的作法によくみられる。原典があったのだぞと信頼度を暗示示唆する手法である。

 仮にもしこの文言が正真のものであったと仮定して考えても、元の書き手も、この新しい方とする刀箱の書き手も随分お粗末な人々である。第一、冒頭で沿革に触れた通り、「河瀬神社」の名は明治時代に入ってからである。寛政の頃にこの呼称はいまだ無いはずである。主水良行やその周縁の事々に全く無知なるものが、極めて安易に「主水」との縁起話を拵えあげたとしか考えようがない。

 何よりまず「井伊掃除頭」とは何事か。なんと「掃除(そうじ)の頭(かしら)」である。ここはまちがっても「掃部頭」(かもんのかみ——この場合井伊直孝を指す)でなければならない。井伊家領内の者が、太守様の称号を掃除頭(そうじがしら)など誤ることは絶対的にあり得ない。つまりこのことはあらゆる意味において論外であって、新出である刀剣受取人「藤八」その他箱書の杜撰については最早全てが語るに足らぬ事柄であると断定してよろしい。これには読者もさぞ笑うに堪えないことだろう。

河瀬神社蔵「刀箱」“掃除頭”の箇所

資料調査に訪れた人々があったとのことだが、誰一人気がつかなかったのであろうか

 

7,銘(迷)刀のゆくへ

 探訪の結果、河瀬神社に小林氏の先代が寄附し、伝存しているとする河手主水遺刀の存在確認はできなかった。——これは殆ど当然の結果である。念のためもう一度いうが、そのような歴史的因縁を構成する「事柄」は戦国末—江戸前期の武家社会内においては成立しなかった。庶人に対し、武士は武具類を与えない。あくまで見返りは金銭であってこれは当時の武家一般の習俗であったことは前言した。即ち「農民に残された武士からの刀剣類遺品」そのものは否定されるべきもので、存在しなかったのが事実であると考えなければならない。

 

 しかしここでは「作り話」ながらあえてその証拠の如く刀が存在させられていた——と考えて、この刀のゆくえについてもう少し掘り下げてみておきたい。

 少なくとも主水の遺刀と称して、何らかの刀剣を小林某氏の先代が寄附したことは事実であったかも知れぬ。ところがその刀が、我々(私と当井伊美術館主任学芸員中谷)が訪問した時は姿を見せなかった。つまり実物を実見することはできなかった。

この段階で、当方としては宮司氏(拡大すると神社関係の方々を含めて)に対して気の毒だが、実のところいろいろ不審、不可解の念が湧いたのは本当のところである。これは私達ではなく、誰か他の多少歴史と刀剣に詳しい人がこういう状況に際会したら、必ず同じことを考えるであろうことは必然であるからだ。

 

それは以下のことどもである。

 

 ①刀剣はもう既に以前に失われている。

 ②刀剣は存在する筈だが、所在不明である。

 ③②に係って、宮司氏の子息がどこかにおいている可能性があるけれども、当方訪問時、子息への連絡(携帯電話)はつかず、調べてみますという話であったが、今もってその後の有無の返事はない。

 

 ①であれば最早詮索の仕様もない。

 ②、③の問題。「どこかにあるだろうけれど熱心に探す気はない。他事が忙しい」という答えが予測される。要は宮司氏の丁寧心ないし、其の意に任すのみであって、こちらから急かせることはできない。

 

 刀剣の行方についてごく簡単に条項を設けて考えてゆくと、まず第一に気づかされるのは保管の曖昧さであろう。刀箱も随分粗製、かつ事情に反して不似合いなものである。卑しくも「御刀」を収納するようなしつらえは微塵もない。その上蓋の片一方は紛失してしまっている。宮司氏や同氏の奥方に悪意を持って報いているわけではない。実情をそのままここに書き記しているだけである。「故意の隠匿」はこの際の私の選択肢にはない。思慮の外にしたい。ここではやはり刀はどこかにあると希望的推測をのべたい。そうでないと、寄附者に対して申し訳が立つまい。

 

 しかしその一方でもうひとつの考え方が脳裡に浮かんだ。あまりに無邪気に甘く考えてはいけないという自省の念から湧いてきた、もうひとつの思いである。

実は刀はすぐ出るところに保管されてある。しかしその刀は錆びているし見せる程のものとは思われない。もし見せてつまらぬものなら具合が悪い。

このような単純な理由の他に、もし刀剣がすぐ側にありながらのことであれば、見せないのには種々の理由が考えられる。しかし、ここではこれ以上穿ったことを考えないことにしておこうと思う。宮司氏や神社関係者に対する私の配慮である。

 

 刀の存在や良し悪しを詮索したところで、実の処それは全て憶測であるゆえ、余り意味はないのである。「神社所蔵寄進刀」が優刀であれば、少くとも市文化財ないし県の文化財には指定されている筈である。

 由緒のある大社寺や、あるいは全く何も知らない人の家からごくたまに悽い名刀が発見されることがあっても、全体からみればそれは暁天の星をかぞえるよりなお少ない。銘があってもなくても水準以下のものが大抵である。これまで無数の刀剣類をみてきた者としての結論である。そしてもう一つの結論は、「主水良行遺刀の噺」は事実から見ても存在しなかった——ということである。だから神社を訪問して、「主水の刀」なるものが出てこなくてよかったと、今は思い返している。主水の所持した眞物の刀剣が寄進されたことは刀剣贈与の常識から考えてもあり得ないから、はじめから「主水真実の刀」は存在しなかった。そんな刀剣が存在するとすれば、それは附会の品である。このことは既に念を入れて記したが、もう一度重ねていっておく。

 

8,河手主水墓地決定の経緯と真実の墓守について

 主水がいまの地に葬られたについては深刻な事情が蔵(かく)されている。そのことについてはやがて一書にまとめ発表刊行するつもりなので、ここではごく大略の事情をのべ、合わせて主水墓を維新後に整備した真実の墓守の存在についてもふれておきたい。

 

 河手主水良行は、大坂冬の陣で手に合う状況に立てなかった。つまり手柄をあげることができなかった。勿論それにはそれなりの他の理由があった。これを詳述するためには、優に一篇を著すための紙幅が要る。つまるところそのなりゆきは主水には責任のないことがらであった。けれど、家中で高禄を喰む御曹司、それも他家から来た者となれば良行に対する風当りは強かった。主水は次の戦争が一日も早く到来することを願った。そして大坂夏の陣の勃発である。主水は雪辱の時こそ来れ、と奮発した。結果は自殺的戦死である。

 

 これは主将井伊直孝にとって、けしからぬ行為であった。直孝の「死者主水良行」に対する思いは穏やかでなかった。幼い嗣子への相続は許したものの、その死を悼むことはなかった。

結果、南河瀬大三昧の葬地指示である。本来なら城下の立派な寺であるべき筈が、城下外れの不毛の荒林を永久の眠りの場所とされたのである(因に主水良行の養母——井伊直政実姉・高瀬の墓は城下長純寺にある)。

 実のところ、主水は一個の士として、一軍の将として直孝を怨んで果てたのだ。直孝は死者である主水に、その罰を実行したことになる。

 

 よく考えれば、主水の恨みはいまだに生きていると思える。かれの墓守を自称する人に対してこう言いたい。私は、その知らざる処を罪してその人を罪するものではない。しかし、その知らざる処を察することなく、己を利するところに須(もち)いてはならないのだ。なぜなら、主水の霊は現今、いかにもその者が先祖以来、墓守を遺言依頼された如くに言い為(な)して勝手に振る舞っているにも関わらず、これを否定し罰することもできずに地下に忍び耐えなければならない境地におかれているのだ。主水良行の霊は忿(いか)っているであろう。

 

 河手主水家の本系図や主水に係る遺物をまるで天与されたかの如き偶然の重なりから所蔵することになって、河手氏の研究へと進化してきた私には、その非を明らかにするつとめがある筈である。このことは既に再々にわたってのべてきた。藩政期以来、この河手主水良行の墓を守りつづけてきたのは、分家の河手藤兵衛家の人々であったことは冒頭で既に述べた。現に最近までそれらの墓四基が、あたかも主水良行の墓を守るがごとくに築かれてあったものを、彦根市街区にある宗安寺に移設されてしまった。宗安寺住職に尋ねたところでは「もともと藤兵衛家の墓碑群は宗安寺にあったので、これを元に戻しました」ということらしいが、そのかみこれら一族の墓が主水の墓のもとに移されたのは、藤兵衛家子孫の主水の霊を慕うあまりの念からおこったものである。墓が墓を守る。理想的な追善供養ではないか。

 前記宗安寺の住職氏によると、この宗安寺移転の一挙も小林某氏の指示行為であるという。墓地の移転など、その遺族一族でもない者が簡単にできるものだろうか。私は縁(えにし)なき部外のものが墓碑を恣いままに転設させたことが了解できない。この場合、それを引き受けたお寺の行動も何か判然としない印象がのこる。住職さんによると永代供養料なるものを小林氏から貰われたらしいが、それで主水や分家河手氏諸霊は了解(りょうげ)するだろうか。私にはまことに納得できぬ。

 

 この行為の裏に潜む企画を推測するに、その目途が将来、自己およびおのが子孫たちによる主水の墓の自在扱いにあるのではないかということである。これで既成事実化し、墓域を綺(いろ)うことをおのが家の既得権的行為とするわけだ。宗安寺さんに言を及ぼしたわけは、後年このことでお寺さんが小林氏に私的な肩入れした——と指弾非難されはせぬかという心配である。こんな死者の霊に対する背筋の寒くなるような没義道(もぎどう)的行為は単なる私の思い過ごしであることを祈りたいが、なぜかまことにすっきりしないというのが本音である。

 この小林氏に対する推測は私ならずとも、少し物事をみることが出来る人々にはわかる、自明の行為であると考えるが如何であろうか。

 

 私は井伊美術館HP「前後截断録 第37回 恐怖のスイアゲ② 大三昧のスイアゲ(2019.10.31)」の中で、主水の一族である河手家分家の人々四基の墓碑の移設について、詳しい事情を知らなかったものだから、第一印象で不快の念をあらわしたが、少し思い直して以下の様にのべた。

 

 ——後代添え置かれた墓の主人たちは、それはそれなりに、不遇の先祖を偲んで、背中合わせの倶会一處を営んでいるのに、娑婆の生き者の勝手な裁量で余計なことをするものだと、瞬間微(かす)かないきどおりを感じたけれど、お守りの手が届く現世の所縁の人々のさまざまな都合もあるのだろうと思い直した。むしろ、ここには河手主水良行と息子の采女良富(のちに主水と改めている)の墓が仲良く並んでいる方が、本来の姿でいいのかも知れぬ。——

 

 しかしこれは既記のごとく私が墓の移設を企画した人物について、本当に善意の人で真心をもって(余計な配慮ではあるが)行ったものと考えていたからである。前後の事情が判明し、その実施の背後に様々な裏心が潜んでいる気配が明瞭に感じられた現在、その善良な思い入れは完全に取り消す必要があることがわかった。そんなに人の良いことを考えていて行けない世界があることが、思い知らされたのである。

 

 藩士河手藤兵衛家初〜四代にわたる四基の墓石を他所に移転しておけば、万一その子孫の人々が立ちあらわれても問題なくすますことができる。維新後、倒乱混雑の墓石を整備再建し、墓守を執行(しぎょう)してきたのは分家子孫の河手長平翁である。再建の年次は大正6年5月とされる。墓とともに建てられている長平翁による傍標には、”代々”墓守をしてきた筈の小林氏の名前や関する記述はない。この長平翁が、真実の墓守である。この長平翁の名を、私ははじめてここに公にした。長平翁とも私は目にみえぬ糸で結ばれている。翁は本稿に直接係りがないが、明治彦根の先覚者の一人である。このことは彦根の掃墓趣味の人にもはじめて知ることではないか。主水親子の墓をみるものは、河手長平氏をわすれてはいけない。

 

 ともかく、「天道懼るべし」という古語もある。主水の墓石の上で、ゆかりなき者が欲しいままに舞踏してはいけない。これはたまたま思い出したシャルル・クロスの詩人のことばを借りたまでのことだが、こういう行為は天・人倶に赦されることではない。河手主水良行の名を何かで知ったとし、誰かの記述で主水が好きになったとしよう。その上で本式の井伊氏に係る勉強をした上でそこはかとなく静かに墓守をするのならいいだろう。誰にも知られようとせず、ひっそりと行うべし。主水良行の名を媒介に、歴史を創作した自己宣伝をしてはいけない。

 墓域は現在、何も知らない人には一見綺麗にされているように見える。しかし、そこにあるのは「墓守」の名を藉りた恣意者による黝(くろ)々とした「荒廃」のみである。主水良行及び河手氏累代の霊は、以上にのべた不実の行為を地下から凝乎(じっ)と見続けている。亡き人の霊は今尚そこにあって生きている。

9,根拠なき「墓守」と「拝領刀」始末 —結語にかえて—

 以上、小林某氏の「墓守看板」から発して、その背景として作為附加された河手氏との由緒伝歴について種々検討して来た。

 

 2019年末に河手主水の墓を訪れ、この墓守氏なる人物が何の遠慮もなくしつらえた「墓守」を自称したその署名看板の実物を見た時から、その行為の不当性を直感的に感じた。私には主水の、その「忘れられた墓」をみつけて以来、河手氏にゆかりのある事柄がおこりはじめた。一、二例をあげると、『河手氏』本系譜の発見、主水着用所伝の甲冑類。及び所用刀剣(兼氏—志津)の発見等々である。

 

 武具刀剣、それに井伊家の歴史史料にめざめた十二、三歳の若い頃から傘寿の老境を迎えようとしている現在に至るまで、日本の歴史に関心をもち、とくに井伊家の近世の歴史資料を採集し、それなりに研究してきた。しかしこれほど辻褄の合わぬ、いい加減なつくりばなしに出くわしたことはない。しかもおそろしいことは過去の事柄にかこつけた「造り物の史話」が、年数を保ってゆくといつの間にか「事実に基づく史話」の地位を獲得してしまうことである。

 

 私の執筆動機はこれらの防止のためだ。少なくとも「河手氏」に属する事共は正史を伝えておきたいのである。小林某氏の墓守由緒も、刀剣拝領の件も全て事実ではないことを、郷土の人々に、歴史を愛する人々に聊かでも知っておいてもらいたいがため、あえてここに長々と蕪文を草した。

 もう一度重ねていっておくが、河手主水良行が、小林氏らの先祖複数人に墓守の遺言と刀を贈遺したなどというはなしは全くあり得ない虚伝である。こういうおはなしは、一般の人にはいかにも事実の如く伝わり興味をひかせる。イケナイことである。

 

 読者諸子が私の真意を了解され、真実でない事柄が事実化されてしまうことの不当とこわさ、そしてその是正の必要性を真摯に考えていただくことが叶えば、本稿の目的は十分に達せられたことになる。これは何年かかっても構わない。文章にさえしておけば、やがて誰かは郷土の勇士を本当の意味で大切にしたいと念願する私の叫びを耳にしてくれるだろう。そういう人々が一人でもふえて行けば、河手主水良行その他河手関係氏諸霊の鎮霊供養の大なるものとなる筈である。

 
全体差表.jpg

河手主水所用 兼氏(志津)太刀

河手長平翁遺愛

(了)

 

 

補記

 

本稿が発表されると、いろいろな人々にこの事が知られることになるだろう。自称墓守某氏も当然ながらこの事を知る。ではその人は己が墓守看板を下ろすか、または己が名を削ることをするであろうか。多分知らぬ顔の何とやらを決め込むだろう。何せ主水の墓に目障りとなる分家河手家の墓碑を己が一存で金を使って勝手に他寺へ移設させてしまうような御仁である。こうなると、あとは南河瀬地区の地元の良識である。該地にも、もののわかる仁者はいるであろう。公共の村中墓地は、公共のものとして俗臭を払った清潔な、背景のない聖地にしておかなければならない。拵え上げた史実なき史的由緒の名のもとに「墓守」を称しその名を藉りて、一人の武将の墓を一種私物化していく人を、我関せずで看過黙認するなら、それはその地区の人々の良識と品位の問題である。郷土の汚点ではないか。もはやそれ迄のことである。そこには正しい歴史も文化もないということだ。尚、同氏はその他にも主水との縁を作出した家系伝説を称えているようだが、そのことどもへの詳しい言及は、あまりに長きに亘るのでこの度は控えておくことにする。私も元来彦根生まれの、生粋の彦根人である。同じ彦根人である南河瀬郷土の人々に、正しい認識による判断をされることを願って筆を措く。

(尚、南川瀬町公民館HP作成者である南川瀬の歴史人の人々は、以前、当井伊美術館のHPのアドレスのリンクを依頼されてきた人をはじめ、概ねは善意の人々である。今後さらに正しい歴史研究を続けられることを心からお願い申し上げたい)

 

本稿の調査及び取材については渡辺恒一氏、河瀬神社(宮司御夫妻)その他、色々な方面の皆様に御世話になりました。いちいち尊名をあげませんが、篤く御礼申し上げます。

 

 

 

参考文献史料

古文書古記録類

井伊直孝直書類、『河手家系譜』、「井伊家古記録集」、「木俣記録類」、『侍中由緒帳』、『彦根藩士系図』、『井伊年譜』

 

井伊達夫著

『井伊軍志』(1989)、『井伊家歴代甲冑と創業軍史』(1997)、『剣と鎧と歴史と』(1999)

 

〈刀剣関係論文〉

 

・名物刀剣における伝承の発掘と考察 典厩割国宗の場合(第一回本間薫山刀剣学術奨励基金による研究論文入賞作 『研究紀要』1993年11月)

・国行銘太刀における朱書「仁和寺別当」の考察 (『刀剣美術』1994年12月)

・木村長門守重成討死の節の佩刀について(『刀剣美術』1995年10月)

・竹中重治と伝説の名物刀 虎御前の研究(『刀剣美術』1997年5・6月)

・名物丈木攷(じょうぎこう)(第二回本間薫山刀剣学術奨励基金による研究論文入賞作『研究紀要』1998年10月)

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​関係写真資料解説

※掲載の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みである。

刀剣

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小桜韋威腹巻籠手の橘紋

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◎河手主水所用 兼氏(志津)太刀 河手長平翁遺愛

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甲冑

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◉朱頭形萌黄威具足(伝・河手主水良行大坂陣所用)

 三具を除いて朱で統一され、兜、面、胴が萌黄糸で威された彦根最古級の朱具足である。兜頭頂部には刀か槍でつけられたと思われる生々しい傷跡が残り、当時の戦いの激しさが偲ばれる。彦根藩士、海老江家伝来の一領。

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◉鉄朱塗八間阿古陀形筋兜・鉄朱塗縦剥五枚胴具足

伝・河手主水良行所用

​朱塗りの阿古陀兜が附属する。

所伝の時代は上記朱具足の方が適合するが、堂々とした高級の朱具足である。こちらも兜正面に刀疵が残る。

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◉河手家所用混糸威鉄錆地具足

白、紺などの色糸が使われている、鉄錆地で統一された具足。​吹返には河手家の家紋である横木瓜紋が据えられている。