井伊直弼史記

​–若きの日の実像–

井伊 達夫 著

発表初出〜平成二十四年一月

著者蒐集による貴重資料写真満載!

●グラビアカラー8P 11枚

 モノクロ8P 15枚

 本文72枚 計98枚

未発表文書資料及彦根城周辺

古写真類(昭和30年代著者撮影分含む)満載

​ご来館にてのご購入に限り

    来館者特別価格 8000(税込)

平成30年7月発刊

​四六判 350ページ

​ハードカバー 箱入り

(グラビア カラー8ページ+モノクロ8ページ) 

10,230円(本体9,000円+税720円+送料510円)

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頂上が近い

 「井伊直弼史記―若き日の実像―」 発刊について

井伊直弼 最年少時のうた 現存唯一

城東愛宕山 仙林寺にて

 長らくお待たせしました。完成しました。あとは印刷と製本の上がりを待つのみです。知られざる直弼の姿を知って著者も悲喜交々。読者もたぶん同じ思いをされるのではないかと思います。若き日の直弼は総括すれば「愛すべき鉄三郎」ということになりましょうか。

平成30年4月9日

 「直弼と宗教」(第三章)が終われば本論終了、あと20枚足らずでアップになります。御期待下さい。ほんものの掛値なしの直弼の登場です。

平成29年7月8日

 遅れていましたが、どうやら「直弼史記―若き日の実像―」も95%迄上がりました。只今、直弼と仏道について、仕上げにかかったところです。井伊直虎さんの件でおよそ1年ほどブランクになって、予約の皆様にも御迷惑をおかけ致しましたが、やっと最初の山の頂きがみえて来たわけです。と、いっても、実は井伊直虎の真実についても、――これはおそらく日本史上でも後世に語られる超凡ミスにちがいないので―それ故にこそこれも書いておかなければならない。つまり二書併筆の状況であります。どうぞよろしく御諒解の程お願い致します。青葉の頃には若き井伊直弼が、今までとは全くちがう本当の姿をあらわす筈です。御期待下さい。

   さらばよし、あの山こえて新しき

​          地に水飼はむ 空は蒼空

 中村孝也先生のうた、七十四凡生の愛誦するところです。

平成29年2月18日

『井伊直弼史記―若き日の実像―』
 来年の大河ドラマに係る井伊直虎関係図書の監修や取材協力が多数重り、頭書図書の最終部の執筆が遅れています。鋭意スピードアップを心掛けますので、御予約者および待望の方々、今暫くおまち下さいますようお願い致します。

 

平成28年11月11日 著者

 

ついに書名が決定しました。井伊直虎関係の執筆が増え、井伊直弼史記出版が遅れています。たくさんご予約も頂いておりますがもう暫くお待ちください。

平成28年11月3日

吉田松陰の辞世の書が弾圧の検断者である長野主膳の手紙の中より新たに発見されました。詳しくはこちらをご覧下さい。             

平成26年1月26日

このたび、新に多数の史料が発見され、著者の知見も更に増えました。まるで執筆発表を待っていたかのようなタイミングです。発刊が大分遅れますが、出来るだけそれらを採り入れ綿密に書こうと思います。しばらく抄記をご覧下さい。

平成25年7月24日

司馬遷の名を持ち出すのはおこがましいが、史書の鑑とされる『史記』においてもメインをなす「伝」の部分は概ね人間史話に彩られている。私が書名の肩に「井伊直弼史記」としたのは、直弼とその周辺の人物逸話の採集に重点をおき、読者がそこからその時代に一瞬でも立ち戻って、風俗景色の匂いを嗅ぎとることができれば、「歴史」というものが蘇ってくると思うのだ。そこにおけるその位置の「史記」が死物ではなく、活きた歴史として現前、成立ししっかりとした地歩を占めると信じられるのだ。

(本文より)

​—主な内容—

はしがき

第一章 彦根・井伊・直弼との縁
 一、「直弼伝説」への挑戦
 二、彦根城からの想い

第二章 造られた直弼像 ――虚像が実像に――
 一、既成の直弼像 ――花の生涯――
 二、歴史は信じられるか ――「公用方秘録」の改竄――
 三、史料改竄の理由と関係者たち
 四、「井伊家本公用方秘録」――改竄の発見と公表見送りの経緯――

第三章 直弼における文武教養――絶望の中での沈潜――
 一、彦根家中との乖離・独歩の決心
 二、初学としてのうたの道、国学など
 三、武道
  〔一〕弓馬
  〔二〕剣槍
  〔三〕居相
  〔四〕兵学
  〔五〕武具好尚

 四、仏道参究

  〔一〕士と仏法

  〔二〕直弼の幼年環境

  〔三〕母と父の死

  〔四〕環境の激変ー発心

  〔五〕不安神経症ー独特の手癖

  〔六〕伊勢物語・業平

  〔七〕蝉問答

  〔八〕日蓮との出会い

  〔九〕念佛根元

  〔十〕禅ー道元

  〔十一〕浄土念佛門への回帰

第四章 直弼と女性 ――たかを中心にして――
 一、直弼生涯ひとつのラブレター ――たかへのこされた唯一の自筆状――
 二、たかの素性と遍歴
 三、直弼とのめぐり会い、そして別れ

顧みれば。・・・

 -あとがきとして-

 

構成・目次・本文抄出等発表初出
平成二十四年一月

 

井伊直弼のこと 
                   -書き出しに際して-

 いま、なぜ井伊直弼なのか。時代は大変動期に突入しました。時代そのものの様相は様々な点で当時とは異なりますが、いまわれらが直面している状況と幕末動乱期とは極めて相似た雰囲気を帯びてきています。第二の維新幕開けの胎動は既にはじまり、我々は大動乱期を迎えることになりそうです。激動波瀾を生死した直弼とその時代を考えることこそ現在の我々を考えることになろうと思います。
 昨年の展覧会では「戦国」をとりあげ、昔にくらべるに当今の無気力と閉塞感―泰平の延長気分―は、「時代サマ」を退屈させるとして、わが国が早晩迎えることになるであろう危機を戦国になぞらえ語りました。これはある意味、予言的に気の毒な悲劇の現前として当ってしまったような気がしますが、当らなくてよい予感が不幸にも当らずともよいところに当ったような気配で、今更ながら切実な無常を感じると共に、不幸に便乗する俗衆の偽善の多いのにもあきれます。問題はそこで終ってはいません。始まりです。
 まだこれから同様の悲愴が日本を襲うのではないかという不安にかられます。明日は実際、我身の番かも知れません。そういう予知不能の世界に私達は生きているのです。もはや泰平の時代は終焉しました。いかに生きるか、そして死ぬか、一寸真剣に考えこまざるを得ません。かく言う私は70歳に足を突っ込んだ老人ですが、決して老人とは思っていない、楽観主義の男です。

 

(展覧開催の辞より)

井伊直弼 絶筆

 井伊直弼のこれ迄の評価はいってみれば極端です。「偉人」か「国賊」か、「先見性に富んだ決断の人」か「単なる保守反動家」か。そのレッテルはおよそ単純、単色であるといった方が近い。直弼について語る場合いろいろ説明や、つけたりを要するけれども、まずは天才でも偉人でもない「普通の人間」であったというところに、人物観照の基軸をおく必要があるのではないでしょうか。かれの生涯と行蔵を分析検討するのはそれからのことのようです。

 これ迄直弼の資料や伝記類は一通りみてきたつもりですが、おおむね史料の羅列はふんだんにあっても、人間が立ち上がってこないものが多いのはなぜでしょう。直弼自身の体臭を感じるものがない。単なる史料集とは異る伝記類にはその人物の息遣いが出てこないといけないと思うのです。いかがなものか。このこと容易でないことは承知の上でいっています。

 直弼を主人公にして有名になった小説に舟橋聖一の『花の生涯』があります。物語は直弼の悲劇の人生を桜花の散るが如くに描くことによって、ひとつの仮想の花を咲かせました。しかしそこには真の花はない。これは小説だから当然でもありましょうが―しかし特別にすぐれた小説は史実よりもより一層その人間をきわだたせ明晰に写し出す。虚構が真実を超える場合もあることを忘れてはいけないと思います―、直弼の生涯の実像をあたかもそのごとくに描いたものは小説は勿論史伝類にもないと思えるのです。

 左様なことをいいながらかくいう私も、直弼を考えて数十年もたつのに伝記には一歩も踏み出せないでいます。直弼についての書きものは過去にいくらかものしてはいるものの、片々寥々たるものです。そんな者が一人前の口舌を弄す資格はない。内心の正直なところはそうであり、また同時に忸怩たる思い大であります。

 日まさに西山に没せんとして、日々徒らに焦るのみのこの頃、せめて聊かでも直弼の実像を知りたい。知ってもらいたい。また、少しでもなまみの直弼について考えてみたい。従来ともすれば極端に偉人化あるいは悪人視された直弼像の本格的見直しの契機、考え直す動機が萌せばいいという位の気持ちが正直なところです。この累年の思いをささやかながら、とりあえず小展を以て心中の冀願、寸分を果しておきたいと思います。ここでは虎を描こうと思ってはいません。結果が猫に類しても構わない。おのれのつとめの少しでも果せればいいという存念です。

井伊直弼 練習用居合刀

 直弼は日米条約を無勅許で強行し、反対派を弾圧、大獄とよばれる大量の血を流しました。前者については徳川の屋台骨が緩み、内外多端に際し幕政のトップにあるものとして不逞の徒に鉄鎚を下した。その行為は正義の実行であると信じたかったと思います。後者については決して直弼の本意ではない。政治的処置の道筋に厳然とした信念が、急流中の巖石の如き不動の覚悟が、絶対的に懐かれていたかとなるとむずかしいところです。条約締結の時、近臣に手ぬかりを指摘され、責任の重大さにおろおろし、この上は大老を辞任せねばというのを側近に叱咤されて立ち直る―こんな姿は従前の歴史では判明していなかった事実であり、実の処事情あって公にしなかった、否できなかったことです。そのディテールは長くなるので端折りますが、要するに本当のところは人一倍責任感の強い正義の人でした。それだけに小心翼々で、大胆不敵、剛毅からは程遠い気性、開国も外圧に対するやむ事なき処置であり、真の肚裏は富国強兵ののち、再び祖法に国を戻すというのが実現の可能性迄は詮索しない上での本音でした。当時、反対派である越前の橋本左内あたりは朝鮮、満州、モンゴルを植民地化し、アメリカあたりにも領土をもたねば日本の独立は覚束ないと云っている時代です。攘夷の実行不可能を体感しつつも攘夷派であり、開明進取の人ではありませんでした。 若い時には恋に悩み、養子試験には落ち、国学や好きな芸道には一途ながら身の短才を歎き、一族富裕の徒輩を羨み、かつ、嘲笑し、常に冷え症と頭痛その他の痼疾を抱えて、貧乏暮らしを喞つ。何やかや嫉妬し立腹し、世外にいて身静かならんと欲せども、好きな柳のようにしなやかには順応できずイライラし、もうどうしようもない―という境遇でした。運命はしかしそんな直弼に想像もつかない逆転の栄光の座を用意していたのです。

 実に天なり、命なりだと思われますが、殆ど古衣ばかり着て豆腐一丁の値段まで通じているような人物が大藩の主となると、公私における反動が大変どころでないことは容易に想像されます。普通の人でなくなったのです。あとは格式と先例と、すぐれて有能だが同時に実に有害な側近に取り囲まれて、「大老」という大看板を背負わされのっぴきならぬ舞台に立たされてしまうことになってゆく。直弼は本音では茶や歌や土をひねって生きて行きたかったにちがいありません。政治の泥沼に踏みこんで喘いでいる直弼の姿が夜半の夢にあらわれたりするのは辛いものです。 大略して直弼は芸術家としてはともかく一流でした。しかし政治家としては純粋朴直にすぎた。まさかおのれの首が人にとられるとは―。これもまた天命といえばそれまででしょうが、その直前の心理は恐怖と戦慄という言葉ではあらわせられないものであった筈です。直弼もまた人の子であり、ふつうの人間でした。根本は我々と変らない普通の人間であったと、まずはそういうところからはじめたいと思います。

 以上本展開催のことばとしては不確かで不十分なことばですがスペースの関係もあるのでこの辺で切り上げます。蛇足ながら識られた古歌を藉(か)りてこの頃の心懐を少々。

          わきて見む 老木は花もあはれなり

                   今いくたびか 春にあふべき
 

(平成24年度特別展より)

井伊直弼 部屋住具足

 これまで「剛毅果断の人」と観念的な偉人に固定化されてきた「井伊直弼像」は正しくありません。「開国の英雄 井伊直弼」はいかなる人物であったのか。従来の直弼賛美伝記の主なものは改ざんされた史料を母胎に英雄像を産出成長させ、その上に「至誠の人」という聊か気恥ずかしくなるような原色の衣装を着せて作りあげた郷土の偉人伝記類に人物認識の基本をおいて大抵が書かれてきました。また一方に、無断条約締結、大獄等の処置を肥大化させた国賊、極悪人像が根強く存在しています。いずれも直弼自身の与り知らぬところで虚飾された別の直弼像が作り上げられ、それを一般は信じさせられて来たのです。この虚像を修正しなければならない。そう思いつつ周縁の状況や私自身の怠慢、多忙に取り紛れおよそ40年余り―、思いは肚中に淀んだまま今日に至りました。考えたくもありませんが、この秋には古希を迎えます。もういい加減何とかしないと手遅れになってしまう。本当は井伊直政の伝記である旧著『井伊軍志』(1989年刊)のような厚みあるものに仕上げるのが目指すところでしたが、時間的に余裕がありません。とも角、小冊でもいいから直弼の真影を追った書き物を遺しておこうと思います。史料の羅列やさかんに註釈をつけるのは好きではないので採用しない方向で、叙述の部分によっては厚薄平均を欠きますが窮屈でない気楽なノンフィクション史話に仕上げるつもりです。歴史における人間の裸の現実の姿を「井伊直弼」という希有な生涯を送った人の上に直視してみたいと思います。

                                  (平成24年9月 著者)

井伊直弼 意匠 柳図棗

 

本文より一部抜粋          (省略箇所は・・・・・・で表しています。)



第一章 彦根・井伊・直弼との縁――まえがきにかえて――

一、「直弼伝説」への挑戦

 わざわざ断るまでもないことだが私は物を書くにしても、あらかじめ筋道を決めそれに沿って整然とはなしを説き進めてゆくことが苦手である。計算された隙の無さは面白くないと思う人間だから、そうしたいとも思わない。一寸始末が悪い。たとえば砂磔ごろごろ、いたるところ凹凸の曲りくねった雑草茫々の道をトボトボ、チマチマ寄り道をしながら途方もなく歩くような書き物をしたい。勝手なはなしであるが仕方ない。
 そのようなわけだから私は有識者だ、と自任して事物を全て理路整然と書き記し、あたかも階段を昇降するようにして上下鮮やかに顛末をつけ、もって対象の実体を十分に把握し実証できたと確信満足する人々、そういうお構い無しの自信家とは当方無縁でいたい。そういうのは「有識無慙の徒」というらしい。
 かれらの仕事の多くは、いってみればおのれの信奉する一方的な論理を型にはめこんで上から押しつけ、観念的に仕分け整理箪笥に押しこんだような、実は単純な作業にすぎない。まこと無情無責任な仕業だ。特に相手が歴史とそれに係る人物の事となると、截断機にかけたも同然の単純な思量では事は畢(おわ)らない筈だ。歴史は生き物である。だから矛盾だらけだし、ちりばめられた事件や史料は矛盾に満ち煩雑に錯綜している。
・・・・・・

・・・・・・
 形式的な歴史学というものを根底の本尊に据えないだけの根性と愛着――その現場の歴史の匂いを追慕する土着性―が歴史そのものを髄からとらえる奥義ではないか。とは一人前に思うけれど、思うばかりでどうしていいかわからないし、道もみえない。
・・・・・・

・・・・・・
 私は歴史の事柄も人物の事績もそのままを信じはしない。それをそのまま信じるのを個人の思念にとどめる場合は勝手だが、これを演述するものにおいては歴史への追従(ついしょう)であり、堕落であろう。
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 直弼は禅に傾倒した。果たしてどれ位悟入したか、居相に懸命になったが、その境地はいか程に進んでいたか。印可証明を貰ったから、巻物を書いて一派を樹てたから、それぞれ大変至極の位地に達したと無邪気に信じているのがこれまでの直弼伝記の筆者の作法である。
・・・・・・

・・・・・・
 一般的に史伝記者が嵌りやすい常識的な陥穽である。判断する彼らはいわゆる学者ではあるかも知れないが、禅も剣も素人である。この場合の「素人」とは、例えば真剣を揮ったことのない剣道者、実践のない頭にだけ語録のつまった禅学者等が含まれる。
 家康や家光が兵法の印可を得たりしているのも剣法に格別の技術があったわけではない。剣においても将軍や大名の位にあるものの術と、一騎駈けの下士の業前とは根本的に異る。勿論江戸時代のお坊様は前述のごとく大抵が相手次第の方便である。とは申せ、それで直弼の禅や居相の程度が低かったといっているわけではない。あく迄盲信はいけないといっているまでである。それはそのまま単純幼稚につながる。
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 日本の歴史に係る学者の方で、これら日本古来の武器や武術について詳しい知識や経験を持った人が果たして何人いたか。私は寡聞にしてあまり知らない。
武士の精神の根底に永年の間に培われ血となってあるものを、単に頭の中に知識の文字として入力された概念でしか事をみない大方の歴史学者諸氏が、日本の歴史や古文化について最も良き理解者であるという風に云々しているのが一般である。この現象は、まことに不思議な情景といえるのではないか。
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 付加されたレッテルを簡単に信じてはいけない。距離を明確においた冷静な目線が必要だ。この態度が人物や歴史のものごとを正確に把握する基本姿勢であると思う。そこにあるのは単に意地悪な視線ではない。既認された事柄へもう一度執拗に追いすがり取り縋(すが)ってその表情や内在のものをたしかめたい。そして直弼の人間的な本当のいいところもしっかりと確認したい。
 いかなる人間も大なり小なり、時の流れと闘っている。直弼も人生の全てを限られた時にむけて闘った。その時代の流れが未曾有の奔流であったことを知っていたかどうか。しっかりと見分ける遑(いとま)もなかったのではないかとも思われる。要するに、直弼における剣や禅の修行がこの節に当ってどれ程役に立っていたか、ということである。
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・・・・・・
 「史料の手際のいい整理」などいかがわしい事だと、かの小林秀雄も言っているがもっともと思う。当然ながら直弼に係って他書に引用されつくした「御存知噺」の敷衍は出来るだけしないように心がけたい。
 まして歴史史料の解析など先述のごとく一般の人はわけがわからず欠伸がでる前に必ず放り出す。要は面白く読んでもらわなければならない。それには旧史料を頭の中から一掃し一旦全部捨て去る、直弼の新しい実像を根本から肯定認識してもらうためには、誤認された既成の概念を毀す荒療治がいるのだ。何年何月の考証に係るまわりくどい作業は大変重要であるがそれは教条を尊ぶ、いわゆる史料万能主義の学者の方にお任せしよう。だがいわゆる歴史学者の多くは史料は信じ尊重するが、その奥にある人間は捨象して等閑視する弊に陥ることも事実であって、この点について多少でも補いがつけられたらとも思う。
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 砂をすくっても石がつかめない。石を取ろうとして砂だけが残る。美術も工芸もこの点については同じことがいえる。そのなりゆく果ては頽廃とまではいわずとも衰弱の一途を辿る。その結果、扱われた「歴史」は温故知新に程遠いただの拡大鏡になってしまう。
 伝承や逸聞は当然ながらできるだけ採録したい。「出典は?本当?」などと叫ぶ野暮な詮索家には申し訳もないが、その都度にいちいちの説明注釈はしない。末尾に引用史料等は一括する。伝承―史話類に信用をおかぬ、知性に欠けた証拠を問うばかりの目線には所詮真実の歴史はみえない。空しいものである。
 司馬遷の名を持ち出すのはおこがましいが、史書の鑑とされる『史記』においてもメインをなす「伝」の部分は概ね人間史話に彩られている。私が書名の肩に「井伊直弼史記」としたのは、直弼とその周辺の人物逸話の採集に重点をおき、読者がそこからその時代に一瞬でも立ち戻って、風俗景色の匂いを嗅ぎとることができれば、「歴史」というものが蘇ってくると思うのだ。そこにおけるその位置の「史記」が死物ではなく活きた歴史として現前、成立ししっかりとした地歩を占めると信じられるのだ。
 以上わかったようなことをいいながら、私の記述はあらゆるところが厚薄まだら、精粗さまざま。公私混淆で四方八方分裂気味。時おり「私」が出たり入ったりする。随分気紛れに思われるかも知れないがいずれも承知の上、本気でやっていることである。いろんな項目を同時進行的に書いてゆく。まるで一曲の演奏中、ドラムを叩いたと思ったら中途でやめ、不意にバイオリンを弾き、バイオリンを置いたら、また同じ曲を中途からトランペットで吹く。調子の一定がむつかしいのは当り前であるけれどそんなどこかに、直弼の真像がさりげなくあるいは忽然と姿をあらわすことを演奏者として期待している。刹那刹那の連続であるように見えるものの、どこかに一貫性はもたせたい。勝手な希望であるが、敵は前だけではない。打ちおろした太刀を横に薙ぎ返して背後を断ち、前を突く。「四方八方旋風来ルヲ打ツ」(柳生連也のことば)で、懸命の太刀筋の中に無心の精妙剣の一閃もあるのではないかと思う。
  またもうひとつ、もっともこれが大切なところだが、直弼の文書や史料の研究家はたくさんいるであろう。だが直弼の隠れた表や裏の行実を根気よく採集発掘してその善悪虚実を、右顧左眄なく、また腹蔵なく、そのままに思い切って誌したものをまだ目にしていない。むろん管見の内ではあるが……。
 一番苦しいのは「大獄」の問題である。簡単でもいいから権力者サイド、井伊派の側から実態実情そのまゝを呈示し批判考察したものもない様子である。極端にいえば自己弁護に近いものが多く、中には更に検討を加えて次の機会に――と場を外して逃げたようなものもある。
 「井伊直弼」伝を書いても、「大獄」をすっぽかしたら反井伊直弼側の人々から見れば、首と手の無いヌケがらの直弼がいる、といわれても仕方がない。声も表情も手振りも肝要なところがないことは事実である。なるほど首手のない直弼が史料だけ背負わされうろうろしていては困る。何も悪口を書くべきだと言っているわけではない。全ては「公平な目線」に拠る必要があるといっているまでのことである。
 直弼のイメージは善にせよ、悪にせよ、どちらかに偏向しすぎた評価を既成の歴史観の枠に嵌めこまれ提示されている。表沙汰になっている史料を記すことは容易だが、隠された裏側の事実を発掘考察し、正直に訂正してゆくことは簡単ではない。
 私の知っている歴史関係者が秘かにひとしく洩らすことがある。史上の有名人、特にメディアや小説等でスター的存在になっている人物の周知されない裏面、特にネガティブな湿めり気の多い部分をおおやけにすることは歴史観の成長が立ち遅れている我国一般の人々には受容されにくい。特に幕末の人物に係ることとなると、その子孫・身内の感情や偏向した郷土愛が妨げになる。そういうところで公務的な立場で史上の人物研究をしている人は、具合の悪いところには目をつむり、都合のいいことしか書けないという。マイナス的な史料には積極的には目を向けない方がいいという。そうだとしたら現実は哀しく淋しい。こういう現実があれば、本気にやろうとする歴史研究の現場は立ちすくむしかない。現状でないと都合の悪い守旧派にとって革新的な研究発表は歓迎できない。体制に属している人は排斥されるだろう。出来ないことははじめからしない方がいいということになる。現状維持の事なかれが、それぞれの安寧につながる。結局これは研究者の体のいい怠慢を招く。発表がいつの日になるかわからぬ研究に真摯におのれを対決させても意味がないのだ。無用の用に費やす程浮世の時間は長くはない。
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・・・・・・
 こういう人物を前記の諸士に魁(さきが)けて裏表なく書くこともまた歴史の序列として意味があることかも知れない。
 ――歴史家の最も警(いまし)むべきは、偏見と愛憎である。特にあらかじめ一種の哲学を作(こしら)えて、その中に歴史を填(う)め込まんとするが如きは、歴史を誤るばかりでなく、歴史を誣(しい)るものと云わねばならぬ。――
 徳富蘇峰のことばである。
・・・・・・
                                                

二、彦根城からの想い

 半世紀以上もむかし、十五、六の生意気盛りの頃、私はよく親しい友人などにこんなことを知ったかぶりで嘯いていた。
 ――彦根の風土は好きだ。だが人情は好かん。
何が人情が好かんのか、排他的、自己中心的、嫉妬深い、城下町特有の因習的な相互監視の世間の狭さ。それも今となっては何となくわかるが当時の気分はさだかでない。古い城下の風儀というものはどこでもそんなものだが、そのころはわかったふうなことを文学青年気取りでいっていた気味もある。しかし、たしかに彦根の風土―特にその象徴である「彦根城」は好きであった。現在もたまに心屈したとき帰郷して城を眺めると解放される。気力が恢復する。闘志が湧いてくる。若山牧水の歌のように「心静けし古城を見る」という境地も結構だが、むしろ血を滾(たぎ)らせてくれる心の依り代だ。男は常に熱くあるべきだという思いを蘇えらせてくれる聖地である。またここには私の幼少期から青年前期にかけての青春の思いが胸の奥に濃密に込められ、今も密封されたまま遺されている。少年の原点に戻って昔年を懐古すると、思い出は苦も楽も名状しがたい上質の薫気を伴って馥郁(ふくいく)と心の内を満たしてくれる。なる程、彦根の風土は好きな筈だ。
 「井伊直弼」について書く前に、すこし、私と彦根との思い出草に付き合っていただきたい。直弼さんとは一見関係ない様にみられるかも知れないが、それはいささか性急な浅読みというもの。無用の用は現前して大有(ダイユウ)、単なる有用をこえ得ることも場合によってはあると思いたい。

 彦根城は今でこそ周辺も整備され井伊家専門の博物館もつくられて結構になったけれども、私が幼い頃はかなり放置されたというか、子供心に野性の自然を感じる、フリーな場所であった。ここへ来ると心が活きた。
 重文指定になっている御厩舎は時節柄心ならずも零細なくらしをつづける人々の間借り家になっていたし、現博物館の広い空地は〝公衆グランド〟といわれ我々年少の者たちにとって絶好の遊び場であった。
 ここでは時折り、相撲やプロレスの興行があり、相撲の巡業で臨時場所開幕のときは、力士たちが殆どゴロゴロと昼寝にいそしんでいた。「スモー取りは寝てばっかりいるナ」その生態を羨み、吉葉山の桜色の肌艶の良さ、大内山のマワシをつける前のフトみせた中身のいずれにもびっくりし、力道山の英姿を拝したのもここであった。
 ヒマがあればいつも山際、石段近くにある古井戸をのぞきこむのが常であった。旧藩時代、この井戸に誤って落ちたチビッコ侍が長い刀をカンヌキ差しにしていたおかげで鞘と柄が井戸の壁につかえて助かったという漫画のようなはなしがある。イビられた女中の飛びこみ自殺などはテレビの安物時代劇の世界だけではない。堕落した侍は傍輩が見て笑ったので、かれを斬り殺し逐電したという。まだ殺伐な気風ののこっていた江戸前期のはなしだが、その他もろもろ、井戸の中にはチョンマゲ時代のこぼれ話が世に出ることなく今も息をひそめかくれ潜んでいる筈だ。それは井戸の跡形もなくなった現在も窒息したまま、どこかにたしかに居る、死んではいない。
 築城間もない頃に掘削された古い井戸だが勿論直弼が埋木舎時代にはこの井戸の存在など知りはしなかった。窮庶子時代の直弼は藩の表向きのことなど一切縁のない有髪の世捨人であった。それでいて城下を気楽に徘徊することもならぬ拘束だらけの世捨人であったから窮屈極りない厄介な立場であった。
 勿論幼い私だったがもうこの頃はここが井伊家の政庁であった表御殿の跡地であること位は承知していたのである。
 表御殿は内濠にかかる表門橋、いわゆる極楽橋を入った右手にあってその傍らを前述したが山に向かって石段がある。大手とちがって幾分鄙びた山城の雰囲気をもった道幅の狭い石段だが、ここを一気に駆け登ると天秤櫓のある廊下橋の下へ出る。そこを真直ぐ行かず、櫓石垣を右へ、つまり正統の道を行かず、右の石垣下にそって、道なき道のようなところをひそかに行く。ここは仮定の獣道、冒険である。嫩葉も朽木もいつもながらともに新鮮であった。
 ぐるりと廻って左へ曲ると突然空がひらけ、本丸と西の丸の虎口へ出る。ここの石垣は低く、よじ登ったり跳んだり、更なる冒険が出来る。ここから本丸天守の横の着見櫓あとへ走る。
 この場所は城に来る観光客が天守閣へ登るのを止しても必ず見るところで、城を軸に東、北、南の三方が一望できる。東には石田三成の佐和山城址から遠く伊吹の山、北は千々の松原から磯山の古城址、琵琶湖の北方竹生島方面。南は多賀、鳥籠の山、更に遠く鈴鹿方面の山なみ・・・。
 この櫓あとに時代も名も忘れたが、有名人であったのだろうある外国人(最近詩人であるらしいことを知らされた)のことばが記された標識のようなものがあった。たしかこれも頼りないが、こんなことばがあった。初見は小学三年生の頃だ。
     小人にはびわこがみえる
     勝れた人には日本がみえる
     偉人には世界がみえる
 元は英文で文言は多少ちがうかも知れないが、およその意味するところはそんなところであった。
 幼い私はこれをみて、心細くなった。偉人というのはこの場合直接的には「井伊直弼公」を意味すること位、学校でもさんざん叩きこまれていたからわかったが、ここから下界をみて私にみえるのはせいぜい佐和山から水泳場のある松原近くの湖辺だけである。
 ――僕にはちょっとしか見えんがな。
 ここで琵琶湖の全体が見えるというのはどんな人間だろう。それでもこの文句の中では一番下の小人にすぎない。
 そんな記憶がおのれの内で訂正されたのは中学も二、三年になってからである。要するに心象の世界のたとえ話らしい。書いてあることはしかしどうやら胡散臭い。この外人さん、直弼の造られたイメージに大分迎合している。調子がよすぎる。本人は気の利いたことを言った積りだろうが今にして思えば聊か小賢しく、郷土の人気に応じた繕録にすぎない。直弼はこのように書かれることも迷惑である筈だ。
 およそこのように調子のいいコトバに反撥・拒否反応を示すようになったのはこの頃からだ。
 着見櫓というのは藩主の行列が帰着するのを早見するのに便が良かったからで、やがてこの「着見櫓」が風流に看(観)月楼と美称されるようになったけれどもわざわざお月見などしたわけではない。この櫓から多聞が続いて天守へ至る。当今テレビの古城訪問番組は必ずといっていいほど藩主が天守閣に常住したとか、しばしば登閣したなどとまちがったことをいう。天守は軍事施設であって普段は番士が数人いるだけであった。また藩の大金庫でもあって重要な武具や記録の保管場所である。極密の立入禁止場所だった―江戸中頃この天守に盗賊が入った記録がある。被害の程はわからないが、なかなかの根性である。
 藩主が天守に入るのは井伊家の場合、生涯に一度、藩主になって国入りした時に限られる。あとは無事であれば生涯登閣しないのが決まりの縁起である。藩主が他日、天守に在るということは籠城戦の時だけだ。つまり凶(まが)ツ刻である。他藩は知らないが、井伊家ではそうであった。
 井伊家の藩主になると、まずはじめて国入り、これを初入部というが、そのあと大将の行事として天守に登る。この時同行するのは藩の軍師である重臣岡本家の当主のみで、他に一切家来はついて来ない。つまり二人きりである。ここで重要な問答がある。
――主将タルモノ、事ニ臨ンデ遅疑アルカ
――遅疑ハモトヨリ俊巡スルコトモナシ
 ごく形式的なものであるが、これは直孝以来の秘儀であり、正式な藩主となるための必修の儀軌というべきものであった。
 直弼はあとでも述べるが老臣の岡本家が奉じる御家の軍学である上泉流が嫌いであった。また国学を奉じる直弼は漢学者系の当代岡本半介宣迪(のち黄石と号す)のことが有能、有識は承知ながらも大嫌いであった。この事は後々あとをひいてくるから重要である。
 直弼が岡本半介相手の問答をどんな声音で言ったか、もとより伝わっていないが、十分形式的なものであったからきわめて素気ないものであったことは窺える。そしてここで直弼は歴代藩主のやらなかったことをやった。遥拝所を設けさせることにしたのである。他藩の天守に神仏を祀ったことはある。特に戦国草創期の大名の場合、その当初においては、この種のしつらえをしたことの例は少なくない。ところが井伊家は直政、直孝以来、形式としてそのような神仏頼みをしないし、わざわざ朝廷尊崇を表に出して強調することもなかった(直政には晩年、近江の神々に子孫繁栄を願った人変わりしたような調子の低い奉納歌があるが、これは全く関ヶ原の戦場による気力の萎えによるものだろう)。
 遥拝所とは何か。
 常識として、これは京におわす天皇を彦根にあって拝すための場所と考えられる。しかし天守へは前述のごとく藩主は生涯一度の登閣が不文律ながら厳則とされている。これは守られなければならぬ。だから左様な設備をしても軍事用施設として最重要の神聖な場所である天守に、ふつうには再登城が考えられない皇居遥拝の場所をこしらえてどうするのか。
 現代人の感覚からすれば直弼は一見立派なことをしたようにみえるが、藩主としてはあきらかにタブーを犯したことになる。特別な心入れをしたことを改めてこの際密かに示したのであるが、一歩突込めば遺拝が皇居とは限らない。神君家康の廟所をも含んでいる筈である。直弼の勤皇の志といっても、まずおのが藩あっての勤皇であり、幕府あっての勤皇であった。
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 直弼の時代は本丸天守の南側に設けられた殿舎の部分が既に物置と化して久しい。直政の嫡男直継が本丸天守を創建した戦国の風があった時代は、天守の下の殿舎が藩主直継常住の場であった。現今、この場所では「ひこにゃん」のパフォーマンスが催されているらしいが、私の少年期は彦根城にロケに来たスターたちのファンとの交流の場であった。この場所と西の丸跡では鞍馬天狗をやったアラカン・寛寿郎や大友柳太朗、月形龍之介をみた。天秤櫓前の旧廊下橋での大川橋蔵の立廻りの撮影(マクベスの翻案物―炎の城―)、現場での迫力は城内にあった高校の数学の授業をサボっての決死行だったからいまだ色褪せない。この場所に限らず彦根城では東映の時代劇俳優の大抵はみさせてもらった。それがそのまま往昔の彦根藩士の姿に重なって思われたものであるが、そんな格好のいいものではないということはやがてわかった。
 この天守や本丸の状況について藩主たるものはその細部を大抵知悉している筈であったと専門家も含め現今の人は常識のように思っている。実は殆ど知らなかったのが本当である。直弼も例外ではない。
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 たとえば直弼の彦根城近辺における地理的知識は幼時父直中と住んだ槻御殿及び松原下邸(お浜御殿)の一部、そしてそこを出されて住まわされた官舎というべき埋木舎と城内の一部、城下界隈近くの名所や佐和山近辺、菩提寺周辺位のものである。厳密にいえば彦根城の周辺一里以内とされていたから直弼におけるおのれの周辺環境の情報は小学生時代の私より劣っていた。そういえば他行の特記すべきは年に一度だが遠足が許されていたことである。湖岸の米原から長浜の間に天の川という川がある。夏季、直弼はここへ漁に出ることを楽しみにしていた。年に一回の長距離レクレーションである。主に琵琶湖名物のハスを漁した。犬塚外記にハスを頒けるにつけて贈った狂句に
 
 牛ならでおれは網ひく天の川 

 いうまでもなく、これは七夕の織女に一年に一度しか出られない牽牛星のおのれをかけたものである(私の二十の頃までは湖岸にハス料理専門の料理屋は何軒もあって盛業していたものだが、現在は殆ど姿を消したようだ。いろいろな料理法があるが、傷みやすいので早く片付けるのがコツである。塩焼きはなかなか淡白で特に皮の焼味の食感がパリッとしていて美味であった)。
 このような状況のもと直弼はやがて彦根城主となり幕府の大老となってゆく。これは直弼だけに限ったことではない。泰平期の殿様の社会的知識はおよそがそのような程度の総合で、実の処は「何もご存知ない」というのが当然であった。藩の象徴としての殿様は何も知らない方が、家臣たちにとってもコントロールしやすかった。まして江戸育ちならなおさらである。城の西端に築城時老臣の木俣守勝が常住した山崎郭のあとがある。守勝の通称土佐に因んで土佐郭ともいうが、ここに立つと、松原から琵琶湖にかけ西江州の山並みが一望できる。直弼はこの視点で琵琶湖をみたことがない筈である。湖岸に打ち寄せる波の騒ぎの気配を感じながら、そんなことを思う。現在の目線で昔をみてはいけない。今を以て過去を測ることはできない。現在に生きるひとは案外にこの弊に陥ることが多い。私も例外ではない。

                                      

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