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​井伊家にまつわる人々

新史料「守安公書記」をめぐる

井伊家主席家老 木俣家の三人

守勝、守安そして守貞について

本稿は今回発見された新史料がいかなる人々によって話され、記録され書き継がれたか。その人々がどのような地位と人格をもって、井伊家のために尽したかをいささかでも後代にのこしたいためにまとめたものである。

木俣守長自筆「國語碑銘誌」より

​​木俣守安の項(左)

本書は木俣家第四代木俣守長が筆記した先祖由緒帳。初代土佐守守勝は井伊直政命の恩人である新野左馬助の娘を妻とし、二代守安の母もまた左馬助の娘の一人でした。

木俣家の三人

初代 木俣守勝

 木俣家中興の祖、弘治元年三州岡崎に生れた。幼名菊千代、長じて清三郎、清左衛門、のち土佐守に任じた。四代守長の自筆の家譜(正徳四年成立 井伊達夫蔵)では、はじめに源姓を以て誌し宇都宮氏の支流といっているがあとに加筆して橘姓とし、敏達天皇の後裔としている。この抹消加筆は子孫後代が事情によって施したもので四代守長の時は源氏であったことがわかる。

 

 十九歳の時、刃傷事件をおこし、三河を出奔、入洛し、当時新興隆盛の織田信長にあってその人ありと評されていた明智光秀に仕えた。これは表向きそのような事件がらみにされているが、守勝はそのような軽挙粗暴の性格ではない。実質は家康直命による上方情報収集官であった。

この時代は何処の家中にもこのような信用して役目をまかせられる士がいて、各地各処に配されていたのである。勿論、相手に信頼されなければいけないから、戦場の功もあげる必要があった。常に命がけである。光秀の方もそのようなことは百も承知で召抱える。度量と士気のみせ合いである。雇う方も雇われる方も肚を括っていた時代である。

 

 そんな中で守安は戦さのあるたびに先駈、一番のりの功名手柄をあげ、光秀の推挙で信長に拝謁を許されるまでになった。これが、家康の耳に入った。家康は申入れた。守勝は本来わが家累代の家来だから戻してほしい。これが天正九年、本能寺の変の前年である。

実は信長と光秀の間柄が怪しいという情況を掴んだのである。明智滅亡の直前、幸いにも旧主徳川の家に戻った守勝は27歳。この時餞別に光秀から拝領した光秀着用の甲冑(緋威二枚胴具足)や相州秋広の名刀(脇差)が今にのこされている。その後家康の甲州討入に従い、天正十年、生涯の主となる井伊直政に附属され、その後見の将となった。時に直政は22才である。

 

 北条との百日対陣といわれる若神子陣に直政の副将として出戦。停戦和議となった時、使者に選抜された直政は副使となった守勝と共に北条氏政の本拠小田原に赴き、無事直政交渉の助役となって直政の功を助けた。この時、直政が懐中に携行していった大志津の短刀(重要刀剣)も、また和議条件の細目をメモした自筆条書も今に現存する。実は和議不調の時、直政は自決の覚悟を決めていたのである。また条件の項目ごとに氏政同意の合点をつけさせているが、ここが直政が念を入れたところで、後日の証拠としたのである(この文書は直政自筆最古のもの)。天正十年井伊直政に附属させられ小牧長久手ののち直政が箕輪に封ぜられると城内の一郭を預って住み(現今、城址木俣といわれる場所である。「木俣曲輪」は私が指摘したもので、従来は木の股のように築造された曲輪の跡と解釈されていた。)

 

 以後、直政にはなくてはならぬ女房役となって各所に転戦、関ケ原では実際の部隊差配を任された。守勝の主任務は井伊直政附属の部下というより、直政の補導、目付役であった。木俣氏が井伊家の附家老といわれるのも家康直命とその職掌にあるところが大きい。

 

 直政歿後家中を二分して勃発した彦根騒動(「彦根藩侍物語」中でそう名付けて紹介、鈴木石見と西郷勘兵衛の対立から発生)を収拾させるがやがて病を得、慶長15年7月11日京において歿した。行年五十六歳。法名透玄院摂誉光徹。京都黒谷に葬す。次項の守安はその養子である。妻は新野左馬助女。直政の母の養女として守勝に嫁し元和3年11月24日歿。法名良翁院明誉栄光。新発見史料「守安公書記、雑秘説写記」の聞き書きはこの守勝からのものも少くない。守勝の生涯の大半は井伊直政に捧げられたといっても過言ではない。

二代 木俣守安(『守安公書記』の原著者)

 木俣守安は天正十三年小田原城内で生まれた。母は新野親矩の女、父は狩野主膳正。天正十八年北条家没落の時、乳母に懐かれて木俣守勝のもとに来た。守勝の妻も新野の女であったからその縁を頼ったのである。守勝の妻は守安の母の姉であったが、子がないのを幸いに守安を養子とした。養父守勝が井伊直政の附属の老臣として佐和山(彦根)に来たとき同行し、慶長十五年守勝が死去すると家を嗣ぎ彦根二代井伊直継の老職として知行三千石。更に増録を得て四千石。時に25才である。

 大阪冬の陣には河手主水と共に先鉾となり、真田丸攻撃では軍令を犯して一番駈け(抜け駈け)をして、徳川秀忠の怒りを買った。本来切腹のところが、逆に家康によってその勇気を賞され、寄手総軍中にその勇名が広がり天下の勇将とされた。この時、守安の甲冑旗指物に受けた銃丸の数十六か所、兜の真向に矢疵二筋、自身も高股に銃創を負い漸く引き揚げたが、その後行歩やや不自由になった。

 夏の陣には療養中の有馬温泉から出軍、大将直孝の帷幄にあって総軍の指揮に当った。大坂戦勝の後は彦根に戻り、在江戸の多くなった主君直孝に代わって国もと彦根の諸政に当り、知行五千石、彦根城代となった。

 新発見史料の「守安公記」なるもの――古き伝え・・古人の遺言、関ケ原、大坂両役その他戦陣の細部にわたる軍法史料、故実作法など全十二冊にものぼる尨大な記録は、守安が彦根井伊家執政としての激務の傍ら書きのこしたもので、およそ寛永年間、守安壮年の仕事である。

 この書冊類は本当の自分たちの歴史が間違って伝えられたり、隠滅してしまうことをおそれた歴史の記録者としての義務感と執念をもって綴られた正義の記録である。

 初期彦根の藩政に守安が大きく貢献したことはわかってはいるものの、その明細は今や伝わらない。しかし、黙々と記しつづけられた記録は今にのこされ、史録として燦として光を放っている。

 藩の重職として直孝や守安を輔翼した家老岡本半介宣就とはとくに親眤で、老年になってからの守安との交情を偲ばせる数多くの書状記録も遺される。寛文四年京都黒谷において出家、時に79才。源閑(鑑)と号した。この時の感懐を詠じたうたがある。

 

   有とだに思はじな唯我心

      今日を限りの墨染の袖

 

   京より彦根に還る時、鏡山にてよめる

 

      今より老もいとはじ鏡山

        浮世の外の影を写せば

                      (現物史料現存)

 家督を子の守明に譲ると、自らは知行地愛知郡松尾寺の荒蕪地の一角を拓いて一宇を建立。常照院と名付けそこに住んで念仏三昧の日々を送った。寛文十三年三月十三日示寂。寿88才。

木俣守安画・岡本宣就賛

​観世音菩薩像 (解説はこちら)

木俣守安自筆和歌

六代 木俣守貞(守安公書記の写記者)

 守貞は四代守盈(もりみつ)の長子として彦根に生まれた。母は側室熊野谿氏。幼称亀之丞。清太郎、長じて半弥、清左衛門。
 享保19年父の死により三十歳で家督、それまで「半弥」で家老として加判していたが、「清左衛門」と改称、国老首班となる。元来が病弱の秀才であったから藩執権の激務はかなり守貞の寿命を縮めたらしい。激務の傍ら家伝古文書の整理書写に専念した。それが今に遺された『守安公書記』をはじめとする井伊命名の木俣記録類である。服部南郭への師事は若年からで、師との往来書簡は秘して見せず、守貞の死後、子の守将が庵原朝弘に見せてはじめてその内容があきらかにされた。師弟の交誼のこまやかさ、守貞の謹厳勉励の状は藩中子弟の模範とされた。「守安公書記」の写しがなったのは家督1年後のことである。守貞はまた自家のみならず、主の井伊家の故事古記を収集、これの保存につとめ、延享5年四十四才で歿した。14年の国老首班であった。その間に成した業績はここには載せないが頗る多大である。特にその写記文書類は彦根藩初~中期に亘る政治記録として最も重要な史料とされている。

瀬戸方久

瀬戸方久

(前後截断録④ 新史料外特報 瀬戸方久と「井主」より)

 次郎法師時代の井伊谷は瀬戸方久という一人の高利貸に握られていた。方久は下は在地の農民、上は井伊家の侍たちから次郎法師にいたる迄金融で縛り上げていた。表向き禅宗に帰依した姿を装い、武器を売買して戦場で商売し、裏では高利過酷な金利のしぼり上げで取り立て、担保にとった土地や商品をとり上げてゆく。面白い程儲かる作業であろう。学者は「土地の集積」という綺麗な表現をしているが、これでは実体は窺えない。法定金利や過払いの返戻などなかった時代である。しかし、歴史論文等ではそのような余計な心入れをした用語を使えないから致し方ないのかも知れない。現代風にいえば瀬戸商会、総業ともいうべき多角経営総合商社の頭目である。これは本モノのワルという意味ではない。当時の実力者、実際の支配者という意味であり、強者であったから、当然何事においても勝利した。勝者すなわち正義である。当然ながら身に両刀を帯し、自衛と取立代理を行うための私的傭兵(家人)を擁し、上(はじめ今川、のち徳川)には献金を怠らず、右手に鞭、左手に珠数をまさぐって井伊領内を我物顔に徘徊していたと思われる。いってみれば、新しいカタチの国人である。勿論一部の力と経済力があって世渡り上手な井伊の縁者が、彼に与した。これが関口氏経書状中に出ている、徳政をはばみ「私を仕る井主」その人である。

 さて「井主」の正体は誰であろうか。実は井伊直虎と誤解されている次郎法師には徳政の実行を遅らせる程の実力はなかったのである。方久と組んで徳政延期の操作をしていたのは他ならぬこの「井主」であった。「井主」について小和田哲男氏は当初「井の主」つまり井伊次郎直虎と解釈しているが、この場合は代名詞ではない。人名の略称と考えるのが至当である。後に井伊主水佑に転向されたようである。ところがこの井伊主水佑のくわしいことはやはりわからないとしている。主水佑を井伊とする根拠はないのである。このことは今後検討を要する。

 単純な正義論でいえば瀬戸方久は悪のカタマリであり、井伊谷徳政の実行に駿府迄奔走上訴した匂坂や祝田の祢宜は表現的にはともかくこの場合その逆の人々であった。しかし、戦国時代の事がらは左様に単純化される色合いのやさしいものではない。裏ではごく軽蔑されていることを知りながら金貸しの利得性を尊重し、そのことに専心した瀬戸方久という人物には、この先にくる金融が政治を創出するという新しい時代の姿、経済の未来がはっきり見えていたのかもしれない。彼が幕末の薩・長・土のいずれかに生を享けていたなら、明治の財閥の末班に位するような大商人になっていただろう。これは過大な想像だが…。

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