平成28年度特別展

六十二間小星兜(真田信繁所用)-上州住成重在銘
六十二間小星兜(真田信繁所用)-上州住成重在銘

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紺糸威仏胴朱具足(井伊直政所用・松山藩犬塚家伝来)
紺糸威仏胴朱具足(井伊直政所用・松山藩犬塚家伝来)

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六十二間小星兜(大野修理治長所用・彦根藩家老岡本家伝来)
六十二間小星兜(大野修理治長所用・彦根藩家老岡本家伝来)

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六十二間小星兜(真田信繁所用)-上州住成重在銘
六十二間小星兜(真田信繁所用)-上州住成重在銘

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井伊と真田と
―智謀と勇略の系譜―

2016/02/01 - 2016/11/15

開催の言葉

 全く歴史を知らない人はともかく、そうでない多くの日本人は何故か「ユキムラ」が好きなようです。おそらくアンケートをとれば「ユキムラ」という音の響きに不快な思いを抱く人は殆どいないと思います。それほどまでに愛される存在の歴史上の人物という点では「ヨシツネ」と双璧をなすといっていいかもしれません。概して日本人は戦いに敗れ散った者に特別な想いを抱くようで、「ミツヒデ」「ミツナリ」といった武将も根強い人気があるそうです。しかしミツヒデやミツナリに対して、ユキムラとヨシツネにはどこか「戦(いくさ)職人」的なにおいが強くあります。言い換えれば政治臭くない点が好まれる理由のひとつだと言えなくもありません。大雑把に分ければ幕末の新選組の土方歳三もやや近い範疇に入るでしょう。このユキムラ(真田幸村)という武将、本名は「信繁」であり、「幸村」は死後六十年近くたって書かれた軍記物から語られはじめた呼称です。いわば張扇(はりおおぎ)の中から出現したのです。そして四百年たちました。もってその名の本性が推測されましょう。そしてもうひとつ定着しているイメージとしては、「赤い鎧を身にまとい、家康本陣を目指して突撃し、そして力尽きる」というものでしょう。前置きはさておき、ここでようやく話が本館専門の「赤い鎧」に繋がります。
 戦国期、赤備え(鎧をはじめ武具を朱色に統一した軍団)といえば甲州武田家。その中の飯富虎昌隊(のちに山県昌景隊)、小幡信貞隊、浅利信種隊、内藤昌秀隊の四隊でした。真田に関して言えば、昌幸以前の赤色戎装については明確な記録がなく伝承にとどまっています。少なくとも隊の一部が赤備えであったかもしれないが全体ではなかった、ということのようです。武田家滅亡後、その勢力圏の多くを範疇に収めた徳川家康は、武田遺臣を井伊直政に附属せしめ、旌旗甲冑すべてを赤色に統一させました。いわゆる「井伊の赤備え」の誕生です。これが天正十年(一五八二)のことです。
 それから間もなく、井伊と真田が最初に干戈を交えたことは殆ど世に知られていません。この時井伊隊は直政自身の出馬で漸く真田の拠る上田から引き上げましたが、真田昌幸によって辛(から)い目に遭わされました。大坂の陣はそれから数十年後のことです。
 大坂城に入った真田幸村が「真田の赤備え」を率いて大活躍したことは周知の通りです。大坂両陣という、ひとつの時代の終焉と新時代の到来を確立させることとなる最後の大合戦に、井伊と真田は再び対決したのです。これは「赤備え」どうしが激突した日本最初で最後の戦いとなります。このときはおよそのこととして井伊軍の属する徳川方が大坂城を陥したので結果的には勝利ということになりましたが、全体を通してみれば徳川方一勝一敗。厳密には井伊の馬印が倒れ旗奉行が戦死しているので、井伊の勝利というのは苦しいところです。勝ち敗けはさておき、井伊と真田は武備としての「赤備え」のライバルだったわけです。それも井伊は直政、直孝、真田は昌幸と信繁親子二代にわたる因縁対決だったことを考えると、歴史はやはり面白くて仕方ありません。
 本展では両家ゆかりの甲冑武具を中心に、戦国の息吹が濃厚に感じられる資料を可能な限り展示しました。死と隣り合わせに自らの力を信じ前へ進んだ士(もののふ)の心を少しでも感じてもらえたら幸いです。博物館に寄託定住させていた「信繁最期の兜」といわれる戦国上州の代表凾人成重作の六十二間筋兜も久々に里帰りさせました。御楽しみ下さい。