井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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『木俣土佐守守勝武功紀年自記』なる自伝記録
——擬書の造作とその意図についての考察——
井伊達夫

鳥毛の棒 馬印
馬印とは大将の所在をあきらかにするため、その馬側にそなえられた存在証明の武具。この馬印は木俣家初代土佐守守勝が井伊直政に附属された天正期以来、信州真田陣をも含めた数々の戦場を往来して武勲をあげた象徴。養子の二代目守安は真田丸の柵を破り堀へ飛び込み、櫓下にとりついたことが難波戦記等に記されている。戦国期実用された馬印のきわめて数少ない現物で、この馬印を真田の兵卒や信繁(幸村)が実見したことを思うと感無量のものがある。
〈2〉
彦根藩井伊家に江戸幕初から維新に至る迄最も深く係った老臣家に、「木俣」という家がある。
この家の「井伊家臣」としての祖は木俣守勝という。当初は徳川家康の直命による井伊直政の附人(つけびと)として直政に係り、その出世と共に井伊家の重臣となった。頭書の記録書冊は、この木俣守勝という戦国大名家中における老臣格であった人物の武功事歴を中心に、その一代を自ら記し上げたものとされる。改めていうが書名は表紙が『武功紀年自記』、見開き巻頭表題はやや長いが『木俣土佐武功紀年自記』となっている。
この種の武功履歴書は当時著名の覚えのある士将の何人かによって記されたものがのこされているが、木俣のこの書も目立たぬながらその内の一冊として世間にほとんど知られることなく経年してきた。瞥見の内ながら、本書について調査検討されたことはこれ迄にないように思われるので以下些かの検討を試みることにしたい。
本件の『木俣土佐武功紀年自記』は、古いものとしては筆者蔵のもの、これは彦根木俣家(実は彦根系木俣氏の流れの家は何家にも分れて存在する)から約半世紀前直接買い受けたもので、当初は書中述べられている所について殆ど何等の疑念も感じることはなかった。現在も同名の写本類を所蔵の図書・史料館があろうかと察せられるが、それに係る人々もまた同様のはずである。
以下はこの長大の文書名を、いちいち掲出するのは筆者、読者とも煩に過ぎるので書名を略修して『木俣武功自記』と表記することにして話を進めたい。
上記『木俣武功自記』を入手後、筆者はかなり長い間「本書を正真の自伝記」として信じてきたが、書中記述のある一点において、本書が根本的な誤りを犯していることに気づいた。もちろんこのことも既に何十年もむかしのことである。
これについて筆者は先般発表した「『野田浩子著 井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)』贈本をうけ」中で右掲の事実を公表し、その一点の何たるかをあえて表記しなかった。それは上記受贈書籍を著した著者へのポジティブな配慮と、さらに『木俣武功自記』の作者とされている木俣土佐守勝の履歴を長々とかかなければならなかったからである。此度は一応守勝の履歴をごく簡単に記しておく。
守勝は元来家康の家士であった。しかし家中の士と諍いをおこし相手を殺害した。出奔して明智光秀に仕えた。守勝は光秀のもとで数度の功を挙げ信任されるようになったが、天正九年、つまり本能寺の変の前年再び家康の下へ帰参した。光秀が主信長を弑逆するということは、後世の我々から見れば破天荒の事件に思われるが、光秀と主信長の間がなんとなくしっくりせず、主従の間に隙(げき)が生じつつあることは、両人の間の空気を窺う機転の利く士衆にはわかっていたことであった。
前記の如く事変の前年に木俣守勝が旧主のもとへ戻ってしまうということは随分うまく出来上がっているはなしだが、この場合戦国を生き抜いてきた家康にとってその危険予知能力の作動は当然の防禦行為であったであろう。光秀が反逆を実行し、仮に一旦の武功を収めたとしても、その権力の永続性はほとんど期待できない。むしろ家康には光秀が信長弑逆の後におけるおのが人生への設計、いわば確実な将来を約束するための栄光への企画が成り立つということも、自身には、見えなかったはずである。
事変から天の赦した光秀の残躯十一日という時間は、家康のみた通り、哀れな身心の東奔西走に終わった。つまり事変は突発的なもので、光秀に事前の計画性はなかったのである。ただ、光秀には信長と終身にわたる信心性が保てるか如何か。それに対する漠然とした不安が、常にその心中に蟠っていたことは十分に窺え得るのである。
いずれにせよ家康から観る光秀の後ろ姿には、確固たる信長に対する信頼の持続と成功の自信が窺えなかった。となると本来わが徳川の身内である木俣を、いつまでも光秀の陣営に置いておくことは、信長との信託関係を保持していく上で危険である。避けるべきである。——その結果守勝は帰参した。
このことについて筆者はかつて自著『彦根史譚(昭和48年八光社刊)』中に於て、守勝が家康の間者であった旨の趣を述べたが、この考えは今も変わらない。真実のところ、守勝は家康が放った間者であったのだ。この時代、このような埋伏人事作法は常套的に行われていたことであるが、この節における守勝の正体について実際に発表したのは筆者が最初であって、いまだこのところに着眼した人はいない。
令和7年7月21日
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