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再び世に出た光秀の愛刀「近景」

(三)近景刀の現況と所用典拠

 

 有名武将といえども、明智光秀は叛逆非道人の代表のように扱われてきたので、その愛刀としてたしかな由緒を存するものは殆どないといってよいだろう。但、他に存するものがあるやも知れぬ。しかし仮に存在したとして、それが刀剣として上々の作であったとしても、おそらく明智光秀が所用の伝承は人文史学的な考証には耐え得るとは言い難い。躊躇させられるものになるのではないか。

 その点わずかに別項(「秘匿された光秀の由緒刀」)既記の秋広脇差とこれから発表する近景の刀が考証検討の対象資格を有すると考えられる。以下にその件について記す。

 

 

○刀剣の現状

 

 備前長船の近景という刀工は、鎌倉時代末期の著名刀工である。長船近恒の子、長光の弟子とされる。年号的には文保から貞和に至る作品が残されている。その銘振りは幾種類かあり、二代説もあるがここではその詮索はしばらく措く。まず伝来由緒の研究を第一義とする。要するに本刀はひそかに明智光秀の所用とされつつも行方を喪っていた。近時、幸いの発見(登録証交付済)を得たので該刀剣の現状を記し、光秀所用の由来、典拠を明らかにしたい。

 

銘                     (表)備州長船住近景造

                          (裏)文保元年五月      ※但刀銘

長さ                  2尺2寸9分

反り                  1寸

茎                      摺上

ヤスリ目           筋違

目釘穴               3ケ

 

〈刀身説明〉

 重ね厚く身巾広く中峰のびる。一面にこまやかな地沸つき板目一部流れて柾がかるが総体によくつむ。

 刃文のたれに互の目交え丁字がかり、処々荒目の沸つく。帽子乱れこみ中程少したるみ心に丸く返る。

 表裏に棒樋に添樋、樋先上り。丸止め。茎に焼肌あり、古き再刃。

 摺上げながら堂々とした体配。刃文総体の感じから再刃刀工は美濃鍛治の上手であり、和泉守兼定(ノサダ)あたりに擬せられる。前記の如く刀身は再刃であるが、携った刀工は室町末の名称と推定される。つまり、この刀剣は光秀在世の時代から既にこの姿態であったということである。

 刃文だけをみると再刃とはみられない。近景の作風、刃文は丁字に互の目まじり又は直足入り、全体温和な作風である。帽子はいわゆる三作帽子になる。

 

 

○近景刀光秀所用の典拠

 

 典拠資料は彦根藩家老子孫木俣家旧蔵に係る『重代、伝寶取入、刀剣・書籍品物記帳控・明治廿一年一月吉日・金亀町木俣内』と表書きされる簿冊である。「他見一切無用の事」という部外秘である旨の但書がある。

 本帳は縦23cm×横16cm、罫紙和綴、表紙、裏表紙を厚紙で装幀したもので、伝来の刀剣や、甲冑、軍旗を始め当時所蔵の書軸等を冊中に纏め記している。

 刀剣は冒頭部分に集記(十点)され、秋広、志津等特に重要視されていた刀剣類が記されてある。その内の第四番目に近景の記録がある。以下の通り(刀剣記録の明細参照)。  

 勿論この中にはもう一振光秀の刀、相州秋広が筆頭にあって、来由が記されている。

 書記した者あるいはそれを司った二人の名が裏表紙(木俣畏三)と罫紙末(木俣象三)にあり、また後見返しに黒印が捺されてある。この印の主は木俣畏三守迪である。明治になって、漸く㊙︎の重要由緒をもつ刀剣類が整頓登記された感じである。

 

 

○刀剣記録の明細

 

 太刀近景 拵桔梗文糸巻(※桔梗紋糸巻太刀拵が附属していたが今はない。太刀という表記はそのためであろう)

 

 弐尺弐寸九分 文保元年五月記 両面樋有之

 俗謂明智近景 光秀愛刀也 守勝公 縁族三宅氏ヨリ贈ラル

 

 〔欄外註〕三宅氏ハ明智弥平次ガ子孫ニテ干今熊本ニ在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表紙                裏表紙 木俣畏三                木俣畏三(守迪)黒印         罫紙末尾木俣象三

(画像については2022.6.2 下げております。取材や研究者の方には別途対応いたしますのでご連絡ください

 尚記録簿冊について補記しておきたい。木俣氏は1万石を知行した井伊家筆頭の重臣家である。藩の執政であり、藩主江戸在府中は主君の代理をつとめる権柄家である。

 この家の先祖は木俣守勝といい、もと家康の直臣で一時明智光秀に仕え、たびたび殊功をたてて光秀に信寵された。このことはホームページ別項『秘匿された光秀の由緒刀』に書いたので重複を避けるが、守勝はのち家康によって、若き井伊直政補翼の臣に配された。その後子孫は繁栄し連綿として維新を迎えるが、明治初期の当主となったのが木俣畏三である。

 木俣畏三は実名守迪といい、維新後の井伊藩士の混乱の収拾に尽瘁し、碌制廃止、俵券変換、また士族授産金請求の頭人にまつりあげられ苦労をした。のち、先祖の勲功によって男爵に叙せられたが、この畏三が当時家にあった由緒刀剣や甲冑、あるいは軍旗や書画類を集記し一冊の簿冊にまとめたものが上記の簿冊である。(カット参照)

 裏罫紙端にある「木俣象三」という人物は畏三の息子で、のちに廃嫡された人物である。

 この簿冊は当井伊家収蔵文書中の木俣家文書類における「幕末〜明治初」の部に属するもので、維新直後の重臣家の内政の一部を窺い知る貴重な文書である。

 

 

 以上の記録及記録者によって明智——木俣——三宅、各氏の係りは明らかとなった。刀剣についても目釘穴の記載や反りなど現代のような細部に亘る調査方式は採られていないが、それは武家であれども、もとは刀剣武具に関しては「サムライ」の常識程度の知識しかない当事者にあっては当然であって、むしろ現実的で素朴ながら簡にして要を得た正確な記載であるといえる。ゆえにこの記録に目釘穴やその他の細部の記載がないのは自然である。結論的にいえば刀剣の現状と該記録はみごとに合致しており、これら諸点において該当刀が明智光秀所用を示す典拠資料として認識されることは重要であると考える。

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