再び世に出た光秀の愛刀「近景」

(二)「明智光秀」家の蔵刀

 

 著名戦国武将の蔵刀数というものは、これを絶対的な史料として引用するものは寡聞にして未だ聞かないが、尨大な数量であったことは想像に難くない。以下に簡単に分類してみる。

 

 ①軍用、征戦、城備用の予備刀剣(下級士あるいは非常貸出用刀剣)

 ②褒美行賞用(時に応じて、場で与える刀剣)

 ③対外贈答用

 ④自己佩用

 ⑤格別なる伝世愛刀

 

 上記の如く簡記しても五段階に分けられる。

 現代のコレクターを自認する程の人なら、一点名品主義の人は別として、数百振りを所蔵する。力のある刀剣商も同様である。

 その状況を現在の視点から推測しても①+②だけで莫大な数量であることはたしかである。維新の頃、大名家には何十棹もの刀箪笥や長持に錆刀がこぼれんばかりに入れられていたという贅沢な刀剣談を耳にする。

 ①②の他に③がある。これは常備用としては数が少いが一応名の通った名品である。

 問題は④と⑤である。

 ⑤は家の神器であるから祀り物であって、刀の格の上下よりも来由が尊重される。古来このクラスのものに名品が少くて、維新後の識者が笑いものにするが、その視点が間違っているのだ。要するに神器である。

 そして最も武将その人にとって常用常佩するお気に入りの刀が④グループである。実戦にも用に立って、いわゆる信用十分の縁起のいい刀剣である。殿様「御垢付」の衣服同様の、その人そのものの魂代(たましろ)である。

 光秀最愛の刀剣として高瀬羽皐の刀剣談は「真の倶利伽羅江——義弘」を載せているが、これは光秀敗戦後明智左馬助が坂本城で城を焼いて自殺したとき、共に焼亡していることになっている。ところが『日本刀大百科辞典』(福永酔剣著)では短刀で現存していることになっている。おそらくこれは同号異物であろう。但、左馬助は間違いで、弥平次秀満でなければならない。

 今回新に陽の目をみるに至った近景の刀はこの④に属するものと考えられる。私の常に念頭にある刀剣探査のアンテナに掛かってくれた重要な由緒刀剣といってよい。