再び世に出た光秀の愛刀「近景」

(四)まとめにかえて

 

 以上、この近景の刀も明治の世になって初めて記録され、その処を得た。とはいってもあくまで身内上の留記であって、公表目的のものではなかった。やはり江戸の秘刀は明治になってもまた異なる意味での秘刀であったのだ。

 内々の者でも、大身の武家には、親戚縁者、いろいろな人がいる。畏三氏のごとく、長男の象三を廃嫡しなければならない裏事情を含んでいる人が、明治の井伊旧家臣家にはたくさんいた。まず、身内に油断するな——という時代である。これは廃藩による士族の窮乏が第一の原因であって、侍の身分制と知行制が崩壊すると、儒の教育思想で固められて行動規範も共に崩壊して、人間の本来もつ獣性だけが露骨にでてしまう。義理も人情もなくなってしまった。彦根城内の重臣の邸地は一面の桑畑と化し、子孫は殆どチリヂリに逃散した。家老脇氏の末は北海道の網走まで遁走し果てたという。

 このような中で、木俣氏は流石に旧城代家老の子孫の矜持を崩さず、たとえ落魄者たちの世評が何であれ、その家名を保持し生き抜いていったのである。

 

〈令和元年11.19 改定〉

                        ◀︎木俣畏三肖像(硝子板写真)

                        ▼荒涼とした彦根城二の丸石垣外堀周辺

                         (筆者撮影・昭和40年代)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈本稿使用の文書資料類は井伊家蔵、近景刀は現在井伊美術館寄託中です〉

〈お断り〉

刀剣の茎銘字写真及び記録簿冊の該当部分の資料写真は掲出していませんが、メディア等取材の場合は配慮致します。