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第一章 稚きころ
​ー四ー

 JR東海道線米原から数駅東へ行った小駅に醒ケ井というのがある、この醒ヶ井の奥、上丹生に鱒の 養殖場があった。われわれは〝醒ヶ井養鱒場"とよびならわしていた。醒ヶ井という地名は〝日本武尊が胆吹(いぶき)山(伊吹山)に住む妖鬼の毒にあたって目をやられたとき、ここの水で療治快癒したところからおこったもので、古来精水で名高い。水にうるさい鱒の養殖にかなういい水質に恵まれているところである。

 

 鱒の養殖はその生態研究と出荷販売が主体であったろうが、そのためか新鮮なものを食べさせる料理屋が場内外に数軒あった。その中のおそらく一番老舗だと思われる、構えも広く結構な料亭が場内の奥まったところにあった。

 料亭の名は忘れたが、この店の玄関を上がった帳場の横に不気味な具足が飾られてあった。不気味なといのは勿論幼かった当時の私の印象で、ブキミな内に何か強く惹かれるものがあった。

 養鱒場の入口に別の料理屋があり、そこの女経営者は彦根の人間で、母とは知り合いであった。とくに忙しい夏場は母に応援依頼があり、手伝いに狩り出されることがあった。レジャー施設など余り無かった醒ヶ井の養鱒場は有力な近郊避暑地のひとつでもあって、夏季は結構賑わったものであった。

 私が前述した料亭のヨロイを知ったのも、母に同伴して醒ヶ井へ行ったからで、そういうことは何回もあったが、大体中学二、三年の夏の頃ではなかったかと思う。携行した本の中に旺文社の受験用の〝高校時代"とかいう、あるいはもう少し書名が違ったかも知れないが、唯一そんな書物のあったことを、そしてそれを醒ヶ井の夏の林間で読んだ記憶があるからである。

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廃墟と化した料亭の一つ

 そして、醒ヶ井へゆくたびに、このヨロイを店の外から眺めるのが例になった。あの頃には入場料は要らなかったのだろうか。これも一寸記憶がない。

 ヨロイは形式的には鉄錆地の仏胴に鉄の筋兜を具した地味な、しかし南蛮風の実戦的な造りのものであったが、それは現在の鑑識であって、当時はむろんそんな専門的なことはわからない。

 

 飾り方はそういうものにくわしくない素人の通例で、胴の上に兜が陥没しかかり、面頬はその間から外へはみ出したような不細工さで、さらに両の籠手はダラリと膝下へ垂れてだらしがない。彦根の図書館の赤ヨロイと同じく不細工ゆえの魅力が横溢である。そのままの姿でこのヨロイは私の中学、高校、そして社会人となってからも、この料理屋に飾られつづけていた。飾り放しという点では、これまた彦根城下にあったかつての井伊美術館といい勝負であった。

 この南蛮風の仏胴具足は不思議に私と縁があって、何十年も後に再び眼前にあらわれた。江龍家(料亭の経営者)を離れて放浪の旅に出ていた末の出会いである。これには他に別の話も同伴してくるが、それはまた別件の秘話として後日に語ろうと思う。

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幼時筆者が憧れた

江龍家伝来の仏胴具足

(これはプロの飾り方)

 醒ヶ井は、昔物語からくらべると、現在はずいぶんさびれている。その頃、一仕事終えると、家族で食べにいくのを例としていた鱒料理屋もとうに潰れて、今は廃墟と化している。時の移ろいは迅速かつ無常だ。