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第一章 稚きころ
​ー壱ー

 私と甲冑に関する既往の出来事を回顧することは、そのまま私の人生を振り返ることに他ならない。甲冑とそれに付随する歴史に興味のある人にとって、多少とも参考になればいいと思って思い出ばなしを書くことにした。

 

 城下町彦根の、第二次大戦終結間なしの頃は、まだ士農工商意識がある種の人々の間には色濃く残っていた。ある種の人々とは、母の言をかりていえばその辺の家とは違う家の人々、つまり旧士族の家筋の人々で、中でも落魄した連中ほど、この役に立たない優越意識をプライドに生きていた。

 

ところがプライドはあってもそのような旧特権階級の人々の権力の象徴であった甲冑や刀剣に格別深い意識をもっているようには思えなかった。頭の中で論理的に考えたわけではなかったけれど、その雰囲気はつかめていた。もったいないことだと思った。その思いが私を古武具好きの人間にしたのかもしれない。

天秤櫓から本丸天守をのぞむ

(彦根城城郭古写真ー筆者蔵)

御厩舎から御殿への道(極楽橋)右手堤内は

現在彦根城博物館、中央左手奥に脇内記の屋敷がみえる

 旧国鉄の彦根駅とその周辺は、今はもう全く様子が変わった。旧観を偲ぶものは何もないが、駅からまっすぐ彦根城へ至る道は、幅員が広く変わっただけで昔と変わらない。その道の中間あたり、お城に向かって右側に〝クリモト〟と言う古道具屋があった。ここの親爺さんは私の幼童の頃はまだ三十歳程であったはずだが、この人はその頃から水洟を垂らしていたような気がする。鼻が生来悪かったのかもしれないが、とにかくしょっちゅう二つの鼻孔から水洟を滴らせていたことは事実で、人ごとながら何とかならんものかと鼻下の水気をみるたび気遣った記憶がある。

 

 このお親爺さんが、しばしばヨロイを買い出して来た。彦根は譜代筆頭いわゆる三十五万石、赤備で有名な井伊家のお膝元だから大抵は赤塗りのヨロイばかり。それらがウインドウも何も展示施設のない店の入口はいったところに無雑作に置かれてある。小学校の三年生位まで、私はクリモトの赤ヨロイを見るのが日常の大きな楽しみだった。学校の往還、紙芝居の見がてら、銭湯の途次……。そこには大抵一領、なくても離れものの兜の一頭ぐらいは置かれてあった。値段はもとより買う力もないから聞くことも出来ないし、そんなことに考えも及ばなかったが、思いかえせば時代は昭和二十五、六年(1950〜51)頃のことである。

 井伊の赤ヨロイはこのクリモトばかりでなく、私の通っていた小学校(城東小学校)近くのK店やカタオカ道具店にも置かれていることが多かった。カタオカには同じ頃、赤ヨロイの胴ばかり、前の部分は前ばかり、後は後ばかり重ね荒縄でからげて店の軒先に放り出してあったことがある。数は四、五十はじゅうぶんにあった。雨露お構いなしである。

 

 あのように虐待された赤ヨロイの行末が長い間心懸りであったが、それらがどうなったのかは、ずっと後、武具類を扱うようになってからわかった。映画撮影の道具会社に買われて、時代劇の小道具に使われていったのである。彦根の赤ヨロイは今でこそ数が少なく、また私が赤備の特殊軍制など世間に紹介してきたために貴重視されるようになってきたが、実のところ長い間「金時ヨロイ」などといわれ、安物ヨロイの代名詞にされてきたのであった。

 生まれて初めて、ヨロイなるものを自分の手で触って実感したのは、この駅前通りのクリモトであった。初めて触ったとき、実に意外な印象を受けた。袖や草摺が思いの外軽く、漆器のお椀のような手触りで、まるで重厚なところがなかったのである。

 

 子供心に、ヨロイは全て鉄で出来ていると思い込んでいた。いわゆる家伝と称する粗製の赤具足も薄っぺらながら一応全部鉄であったし、こういう誤った既成概念はそれをベースにした少年雑誌のマンガや物語の表現から自分勝手に作り上げてしまったのであろう。そのころ我々ガキ連の間で流行った遊びに、カンメンというのがあった。カルタ大の艶つきの厚紙に、人気マンガの主人公や、相撲取り、野球選手などの絵が印刷してある。これを地面におき、自分の持っているカンメンで打ちつけ、裏返したら勝ちとなって、そのカンメンが自分のものになる。もっと他にいろいろな遊び方があったように思えるが、今はもう忘れた。そもそもこのカンメンなる呼称も正式名ではないはずである。

 

 なぜこんなことを書き出したかというと、このカンメンに大鎧を着て川を渉ろうとしている武者の絵柄のものがあった。おそらく、それは宇治川の先陣争いで梶原景季に勝った佐々木四郎高綱を描いたものであったと思われるが、その武者の大鎧の袖が、下三段ほど風に飜えっている。風のせいばかりとは限らない。馬を責めて川中へ飛び込んでいるのだから、体も腕も激しく震動していると考えられる。問題は重いヨロイの袖が、さように容易に裏返るのか。

 

 これを私と問題にしたのはカンメン仲間の寺の二男坊主だった。鉄で作った袖がこんな簡単には飜えらない――これは坊主の方の意見。そのとき私は、たしかこのようなことを言った。この頃のヨロイの袖に鉄は少ない。革が多い。だからこのような格好になることもあり得る……。

 

 坊主は納得しなかったが、私にはクリモトで仔細にみた具足(ヨロイ)の研究成果がある。具足の作域構成を大鎧にそのまま転用することはできないが、当時小学校二、三年生の保(も)つ知識としては実証性があったとみえ、坊主は沈黙した。かれは私より二つ程年下だったが、今も元気だろうか。そして

凡そ七十年も昔のヨロイ噺を覚えているだろうか。

 井伊家赤ヨロイにはいわゆる造りこみの賛沢なものは少ない。質実剛健を藩風とした家柄だから、実用本意の粗製が多い。当時はそのような常識がなかったから、最初に見た外部の具足の印象は、思ったより小さく、頼りなげなものであった。こんな薄っぺらな造りで、本当に刀や槍や鉄砲が防げるのか信用できなかった。この疑問は赤ヨロイの頼り気な風袋に友して、かなり永い間、私の胸中にわだかまり続けるのである。

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