秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって)

——  贈答事情から窺われる明智光秀の人間性 ——

(五)光秀亡後の木俣守勝と近景刀の縁

 

 本能寺の顛末は明智光秀の滅亡で終った。

 木俣守勝は乱直後の家康最大の危難といわれる堺から伊賀を超え、海路をとって本国へ帰還するという決死の供を無事におえた。そのあと家康の甲州手入れに従い、着実に任務を遂行していたが、その後家康の命によって後世徳川四天王・三傑の筆頭にあげられる井伊直政に、その輔弼の将として附属せしめられた。

 やがて関ヶ原が終り、井伊直政が歿すると、二代藩主直継の宿老として、江州佐和山筆頭の鎮将となり、更に彦根築城の指揮に当った。

 この時に当って、家康は彦根城を「清左衛門や、この城はそちの城だと思い、念入りに差配をせよ」に命じた。築城に際しては当時伏見に在った家康のもとへ、守勝は城の絵図を携え自身何回も往復している。

 この頃である。九州の寺沢志摩守の家中三宅藤兵衞重元(明智秀満の子と云)から守勝のもとへ一振りの刀が贈られてきた。その趣旨は、「この刀は光秀の愛刀で、弥平次秀満が拝領し、現在まで三宅家(明智秀満の本姓)で大切にしてきたけれども、貴殿が光秀のもとで殊功をあげた旧臣であり、只今も家康公の麾下としてめざましく御働きの御様子ゆえ、小身の当家に置くよりも御貴殿の方にて大切に保持していただくと有難い」——というものであった。井伊家は既に徳川家筆頭の禄高をもつ大名であり、木俣氏はその代表でまず何より徳川家康や秀忠に顔利きであったから、いってみれば贈刀の近景は主家寺沢氏の中央へのパイプ造りの助けの一環として用いられたのであろう。

 

 木俣家の明治蔵刀記録中にある

 

 近景光秀佩刀也 守勝公 縁族三宅氏より 贈ラル

 〔頭註〕三宅氏ハ明智弥平次ガ子孫ニテ今ニ熊本ニアリ

 

 という注釈がその間の事情を物語る。

 三宅氏の子孫はその後熊本細川氏の重臣となった。

 今『肥後読史総覧』中の細川家侍帳(江戸中末期)をひもとくと、家老として「三宅藤右衞門時暉参千石——のち二千石」の記録をみる。

 以上のような経緯を経て、明智光秀の遺愛刀であった近景は文字通りその縁族である三宅氏より木俣守勝に贈られ、以後木俣氏の代々によって一切外部に示さず秘蔵されることとなったのである。

 

(尚刀剣詳細については「再び世に出た光秀の愛刀「近景」」を参照して下さい)

〈令和元年11.19 改定〉

備前近景_サシウラ全体.png

近景刀(備州長船住近景造)