明智光秀の光と影

 

 

〈3〉

         

 信長が僅かの供廻りをつれ京の本能寺に宿したのは天正十年五月二十九日である。従軍の将兵たちもそれぞれ近傍の民家に分宿した。もとよりこの情報は予め光秀の知るところであった。

光秀は主信長に叛意など抱いたことはなかった。家康を呼び捨てに出来る地位(天正九年卯月 光秀書状—井伊蔵)は十分に満足すべきものである。唯一あるとすれば信長の臣下としてのおのれの将来に対する、漠然たる不安だった。明日の身がわからない戦国武将が抱いてはならない心配ごとがいつも胸の奥にわだかまっていた。

 たしかに光秀は繊細ではあったが、単に神経的にもろい性格だけの持主でもなかった。面倒なことにかれは一面でまた叩き上げの武人でもあったのである。

明確に意識したことはなかったかも知れないが、光秀も乱世に男として生まれたのである。天下は夢のまたゆめであったが——、それは願っても叶わぬ夢であったが——、とれるものならとりたい。これはひそかな本音でもあったのである。

 ところがそれが叶う千載一遇の好機が到来したのだ。時に運命はむこうから手を差し伸べてくる。天与の好機を逸する者はかえってその身に害を蒙るともいうではないか。光秀は決断した。

 

 天正十年六月二日早朝に、光秀は本能寺に信長を襲い、同時に二条御所(押小路室町)に宿していた信長の後継信忠をも攻めて、両者ともに殺した。周辺に分宿していた筈である信長の将士は光秀軍に分断され四散した。

この一挙はいわば光秀の突発的行為であって、あらかじめ時間をかけ綿密に用意、計画されたことではなかった。心中どこかにいつもみえかくれしていた「天下取り」の好機を逸すべからずと決断した結果であった。禁断の夢がにわかに現実的になって、容易に叶うことになったから光秀は行動したのである。

 

 結果、信長・信忠を殺す目的は達せられたが、いわゆる羽柴秀吉の中国大返しという、一般には予測もできない大ファインプレーによって山崎に敗れ、壮途はなかばにして終わってしまった。しかし光秀には主君弑逆という江戸儒教的な罪の意識は余りなかったにちがいない。

要は事が成るか、成らぬか——の二つにひとつであって、その点に於て少くとも光秀は成功者というべきであった。光秀は天の与えた好機を、愛宕山に何度も迷いつつもその果てに決断して逃さず、目的を達した。もうあとの事はいわば余後の附け足りである。成敗利鈍は天運、任運であって、よく人力の与るところではない。