明智光秀の光と影

 

 

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 天が与えた光彩は一旦のことであったかも知れないが、光秀は自身成すところを成した。以て瞑すべしであって、秀吉を迎えるその最後の一戦に臨んで、もろもろの不運な事情はあったにせよ、あえて先手の利運を択ばず、堂々会戦の陣形を採ったと推測されることからも、もう既に覚悟は決まっていたことが思い知られるのである。

 俗に乗るか反るか、切所の一大事を「天王山」とたとえるが、光秀には当初から桂川(淀川)の川手と天王山の山手の間にある山崎の狭所を扼して、おのが戦略上優位に立つことを放棄した。天王山麓(一般に天王山頂占拠と誤解されている)を抑えることは秀吉軍との決戦において見過ごしてはならぬ要点である。 

  光秀に勿論そんなことは充分にわかっていた。それにしては手当すべき軍勢が少なすぎた。光秀はこの時期、細川父子の離反、筒井の不順等、わが目論見の次から次へと外れ去るのをみて、天運の盡きつつあることを知ったのであろう。

 万が一の僥倖を得て、ここで一勝を得たとしても、もうあとが続かない。最早、秀吉と戦う前に大勢は決していた。明晰な光秀は「成敗利鈍」を知っていたのだ。自身が歴史の舞台に光彩を放つ限界を、そしてその果ての闇を。——

 光秀は若い頃から勉励努力し、あかるい陽の差す人生の表街道をめざした。身分の低い立場から苦心の末、信長に見出され、その他大勢の人々同様陰の生涯で終わるところを、明るい歴史の表舞台に立つようになった。しかし、その陽光を受けつづけるには主信長の要求は常に苛烈であった。これは勿論光秀のみに限ったことではなかったが。光秀はその輝く熱い人生の日々に渇いた。光秀には日影の泉が必要であった。そこで暫しでもいい、休息がしたかった。乱世の天才信長には理解できぬ神経の嫋やかさであった。戦国の砂漠に安楽の清泉を探しつづけ、見出し得なかった長い旅の結末が老ノ坂から、東へ転針し本能寺へ向かう闇の道であった。闇の中に、さらに深く濃い闇を背負って、光秀は冥界へ沈んでいった。「逆臣」という名の暗い影を背負ったまま、永遠に息うことができず、その魂はいまもまだどこかをさまよい続けている——と考えるのは現代人の過剰な感傷主義にすぎないのだろうか。

 

 いずれにせよ、戦国の歴史に大きな光を受け、また、衆人を刮目させるだけの陰を負って世を去った「明智光秀」という男は倖せであったというべきである。