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秘匿された光秀の由緒刀(秋広・近景をめぐって)

——  贈答事情から窺われる明智光秀の人間性 ——

(二)光秀と木俣守勝

 

 代々彦根藩の城代家老をつとめた木俣氏の先祖は木俣土佐守(守勝)といった。(若い頃は清三郎、のち清左衛門、更に転じて土佐守といったが「守」名乗りはこの初代守勝だけである)

 もともと家康の家来であったが、清三郎と名乗っていた十九歳の頃、岡崎で刃傷事件をおこし、城下を出奔。当時織田政権下で力を発揮していた明智光秀に仕えた。

 守勝の個人的武功の主なものは、この光秀に属している間にうちたてられた。一つ目は播州神吉城攻めで一番乗り槍下功名、二つ目は和州片岡城攻めで、有名な可児才蔵と共に一番乗り。これは相乗りであるが、いずれも一番乗りである。

 赫々たる武勲であるが、天正九年二十七歳のとき家康の命によって帰参した。あたかも本能寺の変の前年であった。光秀の守勝宛書状から、もう少し帰参のときを正確にいうと天正九年二月以前であることが知れる。

 この辺りの事情から、戦国時代特有のある真実が泛びあがってくる。

 木俣守勝の光秀への仕官は、家康の企画したものであった、ということである。そうでなかったら、単純な仕官でなかったら、わざわざ家康が戻ってこいと指示することはあり得ない。つまり、守勝は家康のもとで事件をおこして岡崎を出奔したことになっているが、これは実はお芝居であって、そういう事にして守勝は光秀のもとに送り込まれた——。

 つまり、家康は光秀との外交手段、情報収集のパイプ役として木俣守勝を織田政権下へ放し置いたのである。

 明智光秀もその辺りのことを内心ほぼ承知の上で守勝を受け入れた。

 家康は本能寺の変の勃発するおよそ一年前、守勝を手許に戻した。木俣氏の江戸時代前記迄の記録、特に初代守勝、二代守安の事蹟に最も筆を費している『国語碑銘誌』(第四代木俣守長編著)には、そのような守勝の幸運な帰参の経緯について「実ニ守勝天命ニ叶ト謂ツベシ」と誌しているが、それは真実を伏せた綺麗事に過ぎない。守勝の正体を今風に穿った見方をして、実は徳川の高級諜報員であったと解釈すると、その状況がわかりやすい。

 重要なのはここから先のはなしである。

 明智光秀も戦国に生きた超一流の人士である。守勝を介した家康の企図は十分に見抜いていた。そしらぬフリの外交的駆け引きのひとつだ。光秀にも相手側の目論見を利用するだけの器量があった。

 役に立たぬ男なら、大概の事情を承知したとはいっても、三日も手許におきはしない。守勝の懸命の武功はその事を物語っている。

 しかし、突然——のようなカタチで、家康は守勝を光秀から引き離した。ここには重要な理由が潜んでいるやに思われる。そうである。家康は守勝の情報から、光秀と主織田信長の間に、表に出ない深刻な軋轢が生じていることを察知したのだ。

 結果、前述の通り守勝は家康のもとへと帰ることになった。

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