加賀と彦根の「家中戎装(じゅうそう)」について

 「戎装」というのは、戦時装束、つまり軍装のことで、簡単に甲冑の形姿とここでは考えてもらってよい。加賀と彦根の家中が完全戎装をして同一戦場に臨んだことがある。大坂冬の陣である。この戦役、両家中は味方同志ながら、激しく競り合った。
 慶長十九年十二月四日早暁のことである。
 この朝は、霧がとくに深かった。咫尺(しせき)を弁ぜず「城の土手に行当り申躰(もうすてい)」(『松雲公夜話』)であったらしい。土手に行当る――とはいささか極端な表現だが、この「土手」というのは真田信繁(幸村)が守る真田丸の空濠の土手のことである。
 真田丸に仕寄をつけたのは、主に加賀(前田利常)、越前(松平忠直)、彦根(井伊直孝)の三家で、真田丸に向かって東から西に、加賀、彦根、越前という配陣であった。
 彦根の先手は、加賀の先手山崎閑斎、本多安房、奥村摂津(以上『松山覚書』による。「大坂真田丸加賀衆押ル様子」ではもう一備、長九郎左衛門が入る)らの備に対し、敵の真田に対するよりも激しい敵愾心を抱き「負けじ、遅れじ」と、抜け駆け法度の厳しい軍令の中を競り進んだ。彦根の競争対手は西に接した越前勢に対しても同様であったが、気がついたときは三家とも真田丸の土手下に達していたのである。あとはただ暴走――である。彦根の先手木俣勢は多大の損害を出し、加賀の方も討死三百騎(『孝亮宿祢日次記』)は過大な風聞にしても、大河原父子はじめ稲垣掃部、岡田助右衛門など有力な武将を失った。加賀と彦根のヨロイ武者が総集して、一味ながら家中互いに競ったのは、これが最初にして最後である。
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 加賀と彦根の家中諸士は甲冑制度上、全国的にも珍しい統一的戎装をもった。まず加賀であるが、これをひと括りに「加賀具足(よろい)」と総称する。ただし前述の大坂陣の頃はいまだ「加賀具足」という名称は存在せず、当然ながらその形態も不完全であった。
 因みに加賀具足の特徴はいかなるものか、ごく簡単にいうと、変化に富んだ鉄や革札を切鉄や銀蠟流し、あるいは金唐革で飾り、派手な色糸を組交ぜにして威し立てる。他の家中のものにくらべると、ずい分と装飾加剰である。良くいえば華麗であるが、威圧感に乏しい。 

本多政重所用具足 ―加賀本多氏初代―
加賀具足としては未定型の、加賀藩最初期の具足

 このような加賀具足が完全に創出されたのは綱紀治世の中頃以降と思われる。ゆえに前述の大坂陣の頃は、加賀家中の武装も個性のある整いはみせておらず、上方豊臣系の桃山風な甲冑を着用していたとみて差支えない。つまり加賀具足の先祖には豊臣系の賑やかな甲冑形式の血が入っているということである。
 一方、彦根井伊家中の甲冑は彦根入部以前、小牧長久手の役の頃から既に「赤備え」と称ばれ、制式としては不完全ながら特色ある形式が生み出されていた。この「赤備え」というのは文字通り赤漆塗を原則とする。兜も胴も、その他ヨロイの全部分を赤一色で統一するのである。不完全――と先にいったのは、小牧長久手や関ヶ原の頃までは家中全員の戎装が完全赤装でなかったからである。乱国の社会事情がこれを許容した。トータルとして「赤」であればよかったのである。この井伊家中の赤備えが、武田の部将飯富兵部虎昌の部隊カラーに淵源を発していることは既によく知られていることである。虎昌自裁後、赤隊は弟の山縣三郎兵衛昌景に継承されたが、武田の滅亡後、徳川家康は多くの武田遺臣を採用し、その殆どを家臣の井伊直政に附属させ、直政の部隊を赤備えとしたのである。但、完成された加賀具足が金沢家中のトータルユニフォームとなったのが綱紀の時代であるように、彦根家中の「赤備え」もそれが完装されたのは、加賀よりわずかに時期は早いが、三代井伊直孝の時代であった。人事は何ごとも“漸ヲ以テ成ル”である。
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 戦場で六具に身を固めると――つまり完全武装をすると、個人的にはむろん集団としても、敵味方の区別がつきにくい。ここで同集団であることを識別する徴表が必要になってくる。旗差物などもその代表であるが、甲冑そのものに装着するものに「合印」というものがある。統一された部隊マークであるが、大抵は兜の正面につける「前立物」を各家中で一定の形式を決めて用いた。
 加賀家中では金属で造った「猪(い)の目」を合印として前立に用いた。「猪の目」というのは、宝珠形の中にトランプのハートを逆さに透し抜いた様子のもので、あたかもそのカタチが、猪の目に似ているところからその名が生まれた。「猪の目」の合印は意匠的に簡潔かつ目につき易いので、松江の松平家でもこれを合印としているが、こちらは材質が金属ではなく木製であった。
 加賀家中の「猪の目」の合印も、身分による大まかな使用区別があった。直臣は金、陪臣は銀である。いずれもメッキ仕法による身分区分けであるが、先日長谷川孝徳氏(石川県立歴史博物館)から、上級直臣の合印は真鍮製が多い旨お聞きした。
 次に彦根家中である。
 井伊家の場合は「天衝(てんつき)」というものを兜の前立物とした。そのカタチは鍬形に似ているが、鍬形のように先が左右に広がって、先端が意匠化されたチューリップの花弁のように分裂しない。まっすぐ上に伸び、先端は半円形に切断された形になる。ちょうど半月の両端を長く伸張させた形姿から古称は「半月」と記され、後世「天月」あるいは「天突」とも宛字される。
 この前立形式もシンプルで勇壮なところから、合印として均一使用される以前、戦国時代から武将間に人気があり愛用されたことは遺物や絵画資料をみればよくわかる。材質は檜の薄板か煉革製で、下地をして箔を捺した。
 彦根の家中も加賀同様、天衝の色分けで直臣陪臣の区別をした。直は金、陪は銀である。この区分けについては「井伊軍法」やそれを援用した「松のさかえ」その他関係書に出てくるが、現在遺物として銀の天衝の前立の古いたしかなものは1点も経眼していない。
ついでにいうと、井伊家当主の甲冑はこの天衝を大型化し、兜の左右脇から2尺以上に聳えたつ大脇立とするのを約束としているが、江戸中期の甲冑遺物のなかに1例だけ銀の大脇立がある(但、脇立の制作時代は幕末)。藩主の大脇立は金を常制としているので、いかなる理由で銀にしたのかあきらかでないけれど、おそらくは単なる数寄の洒落心であろうと思われる。
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井伊直安所用具足
―越後与板藩最後の藩主―

 先に加賀具足の特徴を書いたが、それにくらべると、よく目立つとはいえ赤備えの彦根具足の構造はきわめて簡素であった。質実剛健をそのまま甲冑に形体化したような趣があるが、早いはなし美術工芸的にみるべきところは少ない。赤備えの簡便質朴主義は、井伊直政、直孝以来の彦根藩の祖法であった。
 たとえば、兜ひとつを例にとっても、彦根具足は「頭形兜」が多い。頭形とは数枚の鉄板を文字通り頭の形なりに矧ぎ合わせて作る、工法的にも単純で大量生産のきく簡便な兜である。集団戦の激化した戦国時代に、補給が容易なのと、実用的なところから大流行したものであるが、井伊家は家中の士のみならず藩主までがこの頭形兜を用いた。とくに藩主の場合は必須が直政以来の不文律とされていた。たとえば部屋住時代の具足に筋兜や星兜を用いていても、当主になれば、タダの赤の頭形兜にしなければならないのである。井伊家歴代でこれに反した者はただの一人もいない。見事といっていいほどの祖法遵守である。
 加賀具足の場合、軽輩の着具でも兜の多くは何枚かの鉄を筋兜風に矧ぎ、八幡座という頂辺に装飾物を設けた筋兜(筋立てはしない)である。その形姿は古風の趣をのこした阿古陀形で、頭形とくらべると手のこんだ結構なものである。彦根と加賀の甲冑、精粗贅朴の差は下士の兜に寸評を須いるだけで全言を要しない。
 しかし彦根具足の全身真赤のシンプルな鎧に、兜の飾り物である立物だけが金銀に輝く姿には、引き締まった緊張感が漲り、意匠的にも無駄がなく美しい。
 加賀具足は、それぞれのパーツ、兜のしころ、頬当、籠手、胴など、それぞれが巧緻であるが、さて飾り立ててみると全体の姿形にまとまりが感じられないものが少なくない。いわゆる加賀工芸の粋が凝ればこるほど、各部が互いに存在を主張しかしましいのである。
 たしかにすぐれたしごととしての「工芸」は、強烈な自己主張である。「甲冑」という狭く小さいグラウンドで、主張の多い各部分を美しく均整化させることは至難であろう。
 とりまとめは「具足屋」がする。甲冑制作は分業である。繊維、皮革、鍛鉄、冶金、髹漆等、それぞれにうるさい一城の主のしごとを、一商人にすぎない具足屋はわかったような顔をして取り合わせる。
 実用の時代の具足屋はそれなりに鑑識も利き、美的感覚もすぐれていたから、トータルとしてのいい仕事をしたけれど、泰平の具足屋は各匠を十分に指導制禦するだけの能力を喪っていた。加賀具足の手のこんだ立派なものほど迫力に欠け本然の美しさに欠けるのは、甲冑を構成する細部の自己主張が四方八方に散乱し、散乱しきったままで、収斂がないからだと思える。ただしこのことは、工芸的に精緻な江戸時代の高級甲冑のどれにでもいえることであって、加賀具足だけの問題ではない。金沢の名誉のためにも念を入れて断っておきたい。
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 赤備えの彦根具足が工芸的にみるところがなくても、全体の線が鋭く勁いのは、三百年来、直政・直孝の質実剛健の祖法を承けついだ具足の仕様――工芸的な主張のない、ただ実用一点に即した無口な仕事――を墨守してきた結果であろう。その典型は大祖直政の関ヶ原戦所用と伝える具足(彦根城博物館蔵)にある。まさに簡、直、剛そのまま、これ以上に足すことも引くことも許さない美しさがある。
 しかし一般的にいって、加賀と彦根と、いずれの具足が多く好まれるか。それはいうまでもなく前者だ。現在は古の戦闘に係りがない。手間数かけた仕事の結果はやはり経済的価値が高い。その点、今後も加賀のヨロイは重宝されるであろう。
 彦根具足は最近少しは見直されて来たようだが、本質美の理解はいまだしである。甲冑の研究は単に唯物、即物的に狭く行うばかりでなく、もっと人文学的な視点を加えて、広く大きくとりかかる姿勢が必要であろう。そうするとたとえば江戸時代の各藩家中藩士の精神形成や日常の生活の色あいまで、はっきりとした姿でうかびあがってくるのではないかと思える。

​井伊達夫

初出:『金沢市史 会報 vol. 17』(金沢市史編さん委員会 平成15年3月)

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