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第二章 「青年時代」
​ー壱ー

○関ヶ原の公民館、ウオーランドなど

 醒ヶ井から国道八号線を少し東下し、不破関址をこえると、かの天下分け目の大戦で不朽の名を残した関ヶ原に至る。少年時代から社会人になって今、この老境に到るまでこの地には何度足を運んだことだろう。数えきれない。

 最初は、やはり古戦場めぐりであったことには違いないが、それがいつであったか、もうわからない。古戦跡よりも、感動的な視覚の現実として、私の記憶に残されているのは、竹中家ゆかりの甲冑である。それは関ヶ原町の公民館に飾られてあって、彦根城にあった井伊美術館の朱具足が鎧、兜における唯一と言っていい既成の主知識である私にとっては鮮烈な嬉しい衝撃を与えてくれた。

 公民館は関ヶ原駅からの旧中仙道を右へ折れ少し行って左へ曲ったところ辺りにあった。建物がどんな形をしていたのか、覚えていないが、ごく平凡な平屋建であったかと思う。

 そこに具足が数点、おそらく二〜三領飾ってあった。他にも竹中重治の画像など関係した資料類があったかも知れないが、印象に残っているのは、その内の二領である。一領は星兜の紺糸とおぼしき総毛引の具足、もうひとつは包革仏胴の具足である。ふたつながら竹中家ゆかりの品らしいが、仏胴の具足に私は釘付けになった。その具足が竹中半兵衛重治所用と木札に書かれて示されてあったことと、その胴の文様のいかにも桃山風らしい意匠。更にその上に変わり型の兜がのせられていたからである。

 

※厳密にいえば、これらの甲冑類に最初に見(まみ)え、ウインドウに貼りつけになったのは高校上級の頃であると思えるが、そのときから何となく全体の不調和には勘付いていた。兜と胴、籠手等が全く別物であったからである。それでもはじめの内はそれで十分であった。上下別物などと不足に感じるのは贅沢(ぜいたく)なはなしであった。

 この一事だけで、竹中重治所用を否定するに十分の証拠であった。

 

 以上のことがわかったのは、暫く経った後のことで、全く初見の時は十分感激した。異和感を抱きつつではあるが、それはそれであって、当時は文句なかったことであった。もう一領の完備した星兜の具足は江戸中期以降の仕立てのもので、戦国美濃の土豪竹中氏が江戸時代に及ぶ迄それなりに命脈を保った証拠品と見られるもので、それ以上又はそれ以下のものではない。綺麗なものであるが格別の感慨はなかった。(因に竹中半兵衛愛刀「虎御前」はずっと後年、偶然の機会に私が発見することになる。不思議な縁であるが、この刀剣に関しては私の考証論文「竹中重治と伝説の名物刀 虎御前の研究」があり、またこの論文で、日本美術刀剣保存協会主催の「第二回薫山刀剣学術奨励基金による研究論文」で賞を受けたことも、私の甲冑刀剣研究のひとつの強い励みにもなっている。)

 

 

 

 

 

  さて展示されていた竹中重治所用という変り兜の添う具足であるが、兜は俗に投頭巾(なげずきん)と称する異形の兜。鉄錆地ではなく黒漆塗のコンディションは良好なもので、兜の形態はともかく、現今の私の判断からすると戦国までの時代はちょっとどうかと考えられるものである(因に塙直政が信長から拝領した具足の兜もこれと類似したものであるけれど、こちらは一段野趣があって迫力に富んでいる——写真参照——)

 

 

   

 一方、胴は包革に金で軍配を図案化して描いてある。附属の籠手(たしか革包の産籠手——うぶごて)と共に時代感が合っていた。「古記」に竹中半兵衛の軍装を記して、馬の皮の裏を表に用い粗々(あらあら)とした粒(つぶ)漆をかけた鎧に・・・虎御前(とらごぜ)と名付けた太刀を差し——とある。

雰囲気はまさにその胴そのものの如くにみえた。いや、実にそのものズバリの遺品であるように思いたかった。しかし、実はその恣(し)意的な認識の強制にも問題があった。胴の真ん中の軍配模様はいくさの勝利を意味する縁起的図様(ずよう)として許されるとしても、胴の上部胸板のところに丸に一文字の紋金具が三箇打たれているのが困りものであった。竹中氏は丸に一文字紋を用いていない。何でこんな重要箇所にこんな家紋があるノダ!と、これは明確に言ってしまえば偉大なる失望であった。この紋所の附帯は竹中重治所用を大きく否定してしまう重要証拠の代表であったからである。

 これらの甲冑は、いまどうなっているのだろうか。国道八号線の関ヶ原界隈を訪れることは殆どなくなってしまったいま、古歌にいう「心に懸る峯の白雪」の思いである。

 

 

 

 関ヶ原の古戦場の中心を貫通している旧北国街道を北へ、池寺池のほとりに、ウオーランドとか称した戦場資料館(?)ができたのは、これまた詳しく記憶しない。広い敷地に楼門を構えた入口があって、中へ入ると、いたるところに馬にのった鎧武者がいて、敵と戦っている。全部コンクリート造りのごついもので、関ヶ原合戦を再現しているわけであるが、努力作ながら多少間抜けた感じの侍顔があって、凄惨な戦物の匂いは全く感じられない。スピーカーから軍勢の喊声やホラ貝の音などが流されて、まっおよそこんなものか——という感じのところであった。

 楼門から続きの櫓とおぼしき中に、主に甲冑を展示した資料館があった。ここは岐阜のYという甲冑趣味の人が収集したヨロイカブト類が貸出されていた(このことは後年の知識である)が、それらを時折みにゆくことは、まだ本物の甲冑にふれることが殆どなかった私にとって愉快なことであった。

展示物の中に、それは兜であったが、鉄製の兜鉢の頂辺から左右にふりわけられて、轡が立物としてのせられているものがあり、この兜の正体、意味がわかる人は教えて欲しいというキャプションがあった。正解した人には何か賞品があるような趣旨の但書があったやに思われるが、今となってはさだかではない。仮りに正解をしたところで、その認識は所有者の知識如何に左右されるのであるから、若い私でも、その広告は何となく信頼度の低いものに思われた。

 

今にして思えば、そこに展示されていた甲冑類はたしかにヨロイやカブト類であったが、甲冑研究上にとって、さして重要なものは置かれていない、一般的なものであった。

(これらの甲冑類はずっと後年になって、全て古物道具市場で処分された由を聞いた)

(信長より塙直政拝領と伝える投頭巾兜付具足ー井伊達夫採集資料

関ヶ原西首塚

徳川家康首実検場(いずれも昭和40年代-筆者撮影)

令和二年 2.11

竹中半兵衛重治所用 名物虎御前ー井伊達夫採集資料

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