井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
井伊美術館資料紹介
名物「鉄(くろがね)の鞍」
本多正純所用・毛利家伝来
本来本多上野介正純が愛用していた朱鞍で、正純失脚後山口の毛利家の有となり、清水五郎左衛門が所管していました。桃山時代鞍打の名人井関の作品で、前輪と後輪に瀬田の唐橋の図柄が金銀蒔絵されています。当時東国から京に向かうには琵琶湖の水運が速いとされていましたが、それは比叡おろしの強風を受ける危険な航路でした。そのため連歌師宗長により、
もののふの矢橋の舟は速くとも
急がば回れ瀬田の長橋
の歌が詠まれ、今日の「急がば回れ」の語源となりました。人生の教訓、馬術の極意を表した意匠です。同時に、瀬田の唐橋を制することは京が間近くなったことを意味し、すなわち天下を制することにも繋がります。
ちなみに「鉄之鞍」という号ですが、詳しい由来は分かりません。
本多正純は本多正信の嫡男で、家康に重用され幕府第一の権勢を誇りました。下野国小山藩主ののち、同宇都宮藩主。講談「宇都宮釣り天井」でも有名な人物です。
清水五郎左衛門は有名な備中高松城を死守し切腹した清水宗治の次男で美作守。実名清水景治。毛利家中由緒ある重臣でした。
(寄託調査品)


唐の頭(彦根井伊家伝来)
家康に過ぎたるものがふたつある
唐の頭(からのかしら)に本多平八
とうたわれ本多忠勝と共に天下に知られた唐の頭というのは、南アジアに生息するヤクの尾の毛です。いわゆる南蛮渡来の珍品で、当時大変高価なものでした。その頃、まだ三河の一大名にすぎなかった家康が贅沢にすぎるこの珍品を兜の装飾品に使わせていたことを、敵である武田の将小杉右近助が三方原の戦いのとき一言坂の上に立札をたて落首したことで天下に知られました。そのうたにはなかば讃辞、なかば揶揄が入っていますが、その頃家康の軍中七人の将が唐の頭を兜になびかせていたとのことです。
掲示の唐の頭は彦根井伊家に伝来した、尾部の軟骨がついたままの未使用原躰品です。勿論現存最古の「使用前」唐の頭です。
※うたは一般に「ふたつあり」となっているようですが、江戸の関係古書記載の方を採りました。こちらは破格ですが、戦国田野の雑味があるやに思われます。
(館蔵品)


織田信長朱印状
黒田勘兵衛孝高宛
宛名の「小寺」は御着城主政職の家臣・小寺勘兵衛(黒田勘兵衛-孝高-)と推定されます。置塩(赤松則房)、龍野(赤松広貞)に触れ、置塩の人数、付城についての指示を与えています。「佐久間」は信長の武将で、この時石山本願寺攻めを担当していた信盛です。荒木村重を主力とする軍勢が播磨に入るのは天正三年十月。九月五日付のこの書状はそれに先立って赤松に対する指示が出されたもので、当時の差し迫った様子がうかがえる資料です。往古の水害で朱印など明瞭でない箇所もありますが、正真であるのは間違いありません。勘兵衛宛の書状は特に貴重です。


織田信長黒印状
徳川家康宛
本文書は家康(三河守-永禄九年より)が高天神城を攻略(天正九年三月落城)し馬伏塚の要害へ陣替した天正八年十月頃、家康より贈られた鷹野の鶴に対する信長の返状。旭日昇天の勢いにある信長に対し絶対服従を強いられていた家康苦難の時代。信長の家康宛文書は極めて少く、既出文書は四点(「織田信長文書の研究」)で本書を含めて五点のみで、この時代の家康の文書も寺社宛のものが殆どです。本書状は保存状態が惜しまれますが、両者の個人的交渉が窺われる貴重な新発見史料。尚文中の西尾は信長の臣・小左衛門(隠岐守)吉次のこと。高天神城を家康が攻撃したこの時期、監察として派遣されています。
当時家康の側で召し使われていた万千代直政が家康より貰い受け、井伊嫡家に伝えられました。本史料は数年前に発見されていましたが、新しい事実が判明しましたので所蔵者の希望により再掲しました。


水戸斉昭自製の筝
徳川斉昭が高須藩主松平義建に贈った自製の筝。
筝の裏には斉昭自製の歌が高蒔絵で施され、内部には朱で斉昭の自筆による製作場所、年号、花押などが彫られています。箱には義建に贈った旨が書かれています。
年号は弘化二年とあり、そのころの斉昭は謹慎中の身でした。義建は斉昭の姉を正室にもち、斉昭とは同じ年齢でもありました。その頃に謹慎中の斉昭を義建が励ますというような行為があり、筝はそれに対する返礼であったのかもしれません。大名が自作の楽器を贈るということは大変珍しく、二人の親しい間柄が感じられます。
斉昭は和楽、特に筝が堪能で、江川太郎左衛門に筝を弾かせたという逸話があります。
幕末の開鎖の論議が沸騰する一方の立役者がこのような深い趣味を持っていたことをうかがわせる貴重な史料です。




石田三成の居城佐和山の城容を彦根側から描いた珍しく貴重な屏風が確認されました。旧彦根藩士の子孫であった大久保章彦(当時埋木舎主人)が井伊家の家扶をしていた時代の名 刺が貼付されているので、井伊家の旧蔵品であったと推定されます。図中には彦根藩士で『彦嶺美談』の著者でもある佐藤貞寄の解説識語(文政十年)があります。
石田三成 佐和山城図屏風




本丸
落城後井伊家によって石垣が全て撤去され、山頂はさらに削り落とされました。本来、城下から見上げれば山容は高く尖って聳えており、その様がこの図からうかがえます
百間橋の状況
かつて城の西方・松原の湖岸から現在の清涼寺の前付近までかかっていた橋で、伝説では長さが三百間あったといわれています
島左近屋敷付近
物見櫓のようなものが見えています。

鏡轡 (鎌倉時代、 富岡鉄斉・旧男爵前田正名旧蔵) 前田正名が九州宮崎の地で発見し愛蔵していたもので富岡鉄斉が譲り受け珍重していた鎌倉時代の轡です。

秀吉から宇喜多秀家に与えられたと伝える轡です。いわゆる「太閤轡」と称されるもので、「山城国住市口直正」の作銘があります。 時代考証家山田紫光氏の識語があります。 (寄託調査品-個人蔵-

北政所寧々と淀の方、それに秀頼(背中向きの幼童)、豊家の子女三人を桜の下に配した 大変珍しい屏風です。筆者は狩野秀頼といわれ、同人の高雄観楓図屏風(国宝)と一部 似通った構図をとっています。左下の池には秀頼の玩具船が描いてあります。

風俗図集等に所載され古来著名な構図の若衆図。これが名古屋隼人の容姿を描いたものであることが本図の発見で判明しました。隼人は出雲の阿国と浮名を流したとされる天下の美男名古屋山三郎の息子で、加賀前田家に仕えました。図中の「蝙蝠羽織」が時代を表徴しています。

二代将軍秀忠が戯れに画いて讃をした珍しい掛物です。文字は「すまぬ さんだん ゝ (算段)」。画中の人物像はどうやら当時交易に出入りしていた外国人のようです。

徳川秀忠が参議(宰相)、右近衛中将に任ぜられたときの宣旨。当時秀忠は13才でした。 この事は『徳川実紀』『公卿補任』『言経卿記』他、関係諸書に記録されていますが、原本がこのようにのこされてるのは珍しいといえます。 この天正19年という年は、千利休の切腹や豊臣秀長や鶴松の死、豊臣秀次が関白になった年でした。前年には豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡しました。本書はまさに激動 の時代の貴重な証人といえるのではないでしょうか。

黒田長政・徳永寿昌他連署状 井伊直政・本多忠勝宛 『符諜余禄』所収 慶長五年八月十九日 関ヶ原の前哨戦において、木曽川を渡河し、岐阜攻めを決定した東軍の混成部隊が、井伊・本多の両監軍に対しその状況を説明し、併せて家康の一刻も早く出馬を促したものです。読後火中の秘密文書がこうして遺されてるのも興深く、文書の重要性が当時から承知されていた証左です。井伊直政と本多忠勝が並んで手に取ったところを想像すると興趣を感じます。

彦根城天守閣改修時の古材をもって造られたもので、彦根城築城時における事故死者及びひろく井伊家ゆかりの死者の菩提を弔するため造立されたもの。

長野主膳居宅「桃廼舎」古材

井伊谷三人集のひとり鈴木石見守重時の大先祖、鈴木三郎重家の指物。

袋鐙(伊東家紋) 鎌倉~南北朝時代 (寄託調査品)

近藤石見守秀用所用 総覆輪片白阿古陀形筋兜 室町最末ー戦国期の残存少い典型的な上級士所用の兜。 近藤秀用はいわゆる井伊谷三人衆のひとり。 (調査寄託品)

木俣守安画、岡本宣就賛 観世音菩薩像 守安が隠居する三年前の七十三歳(万治3年)の作。最も信愛した朋友岡本半介宣就(当時七十五歳)の着賛。宣就にして「謹拝書」と書かせた守安の格禄の大きさを改めて知らされる。書風は大師流、半介の得意とするところ。現在のところ、守安の画は本品しか確認されていない。江戸中期には守安は画人の内にも入れられている。勿論半介の賛が加えられているものは唯一である。この二人は彦根藩初政期を直孝、直澄に代わって実質的に支配した権力者であった。(木俣晃男氏提供・調査史料)

信長秀吉時代 南蛮交易扇面地図

伝武田勝頼所用・高家宮原氏寄進 金箔押朱日輪紋胴丸具足 本伊予札丸胴に、銀総覆輪阿古陀形の筋兜が添っています。胴の日輪紋は力強く、時代の好尚を示しています。名号の前立は、世上にあるもののほとんどが後補ですが、これは本歌です。 安永の頃、富士山麓の正寿院に奥高家宮原長門守より修理寄進された旨の記録があります。宮原氏は武田勝頼の娘が嫁いだ武田氏の縁家で、兜や胴の要所には花菱紋、具足櫃には四菱紋が据えられています。 (寄託調査品-個人蔵-)

伝・真田信幸所用 刈白熊異形前立付 銀南蛮形五枚胴具足 鎬付の南蛮式の胴に、白植毛の長い異形の前立をつけた南蛮風の兜を具した桃山期の実戦具足。六文銭の吹流が附属しています。真田信幸所用と伝えられる特色ある近世具足です。 (寄託調査品-個人蔵-)

著名刀匠長曽祢虎徹の一族 長曽祢利宗作 変り型唐冠形兜(奥平家伝来) 長曽祢利宗は一山と号し、介七(助七)を通称とする江戸前期の甲冑師で、姓は橘氏を称しました。利宗の銘の兜はわずかに筋兜が認識されていますが、それ以外は発見されていません。この兜は利宗の数少い正真銘のある作品で、勿論変り兜は現在の処本作が唯一です。長曽祢派甲冑師の研究資料として重要な作品です。 (寄託調査品-個人蔵-)

伝・真田信繁(幸村)所用 朱𩊱六十二間小星兜 -上州住成重作- (戦国時代) 大坂夏の陣において、越前松平忠直家中・西尾宗次が真田信繁討ち取りの際に分捕ったものと伝 えられています。 (寄託調査品-個人蔵-)

浅井長政着用所伝 明珎信家作 六十二間筋兜 浅井亮政以来浅井の重代とされる信家の兜(永正十五年二月吉日)。浅井長政は三代将軍家光の祖父です。 シコロは本小札燻 革威。シコロや吹返も至極丁寧に作られています。写真では吹返が欠如していますが、これははずれていたもので、現在は修復されています。 長浜南船町の有力町衆として知られた中村対松軒の旧蔵です。「対松軒」は第二次大戦以前より武具コレクターとしてきこえた人物で、コレクションの殆どは対松軒没後、大阪の藤原宗十郎が購入、「藤原八幡堂」の名を高らしめる基となりました。本品はその対松軒秘蔵の品です。 (寄託調査品-個人蔵-)

黒田孝高(如水)所用・伯爵金子堅太郎拝領 刀 無銘 伝景光 黒田家伝来如水所用の刀です。旧福岡藩士で明治期には大日本帝国憲法の起草にも参画した政治家・法学者の金子堅太郎が、大正五年(一九一六)、旧家主の祖である黒田如水の伝記『黒田如水伝』を著した際、侯爵・黒田長成より如水の愛刀として黒田家に伝わった本資料を譲り受けた旨、金子の自筆で白鞘に鞘書があります。 景光は鎌倉時代末期の備前長船を代表する名工です。よくつんだ自鉄と片落ち互の目の刃文に特徴がみられます。 (寄託調査品-個人蔵-)

黒田家伝来如水所用の脇指です。福岡藩主黒田家の刀剣売立目録所載です。白鞘に黒田家時代のものと考えられる「如水公御遺物」貼紙があります。 兼春は室町時代中期から後期にかけて見られる美濃国・関の刀工銘です。如水孝高青壮期にはこのような実用刀を常用としていたのでしょう。 (寄託調査品-個人蔵-)

竹中半兵衛尉重治愛刀 名物虎御前 茎切付銘「竹中重治所持」 戦国の智将竹中半兵衛重治の愛刀であり、 旧恩賜京都博物館(現・京博)の保管刀で、館長の資料発見と考証により世に出た由緒刀です。元来、関の元重とされていますが、関の元重の有銘確実刀はのこされていないので、正確なところはわかっておりません(平成11年著『剣と鎧と歴史と』参照)。 (寄託調査品-個人蔵-)