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 古武具類

    

鎌倉鉢

これ迄寄託、また館長及び研究員が外部にて調査撮影した古武具類の中から、歴史に係る名刀、名甲の数々を選んで順次紹介致します。

​ページが長いため、右横のメニューをご利用ください。

甲冑編

​古星兜(鎌倉鉢)

一枚張厳星兜鉢(鎌倉時代、伝・源実朝建仁寺寄進)

一枚張厳星兜鉢(鎌倉時代、伝・源実朝建仁寺寄進)

一枚の鍛鉄を半球状に丸く打出し、筋を置き、星を打ってあたかも矧ぎ合わせの星兜の如くみせたものを一枚張筋状の兜という。珍しい形式であるが平安末から鎌倉前期にかけ行われ、やがて余り盛行せずに廃れた。現存品は本作を含めわずか数点という貴重な兜鉢である。鉢寸法:前後径20.5cm、左右径18cm、高さ(腰巻上縁より)9.5cm。(調査寄託資料写真)

十六間星兜鉢(鎌倉時代、福島正則所持・彦根藩老職岡本家伝来)

十六間星兜鉢(鎌倉時代、福島正則所持・彦根藩老職岡本家伝来)

もとこの兜は表記のごとく福島正則が所持していたものであるが、関ヶ原合戦のあと井伊直政に贈られ、直政から家臣で軍師でもあった岡本半介に施与された由緒をもつ。”渡辺綱の兜”と称して古記にもあるが、時代はそれより下る。鎌倉中・末期の遺品であるが保存状態もよく史料的にも貴重である。(調査寄託資料写真)

総面

ー現在、甲冑部分品の名称として「総面」と書かれることが多いが、本来は「面包」といっていたものである。面部全体を護るために用いられたと一般的に解されているが、戦場での実用性には問題がある。何よりも視野が狭く活動的でない、総面包(以下総面)の本来の用途は所用者の相貌を隠すためである。

山内一豊が高知城経営の見廻りに際して総面をつけたというのが代表例のひとつであるが、上杉謙信が出戦に際して伎楽の面を用いたというのも鉄製目面ではないが所用目的の発生縁起として参考になる。敵味方の大概に人相を識られないようにするために総面を用いるということになれば、実戦場に使用されたということもまたあながちに否定はできない。しかし現存する真物の総面はその殆どが江戸中期以後の実用期を離れた時代のものであって、本作のような室町〜戦国期に遡る古作総面の遺品は極めて少ない。

○江戸期総面の特徴を簡単に説明すると、第一は威嚇的表情をとるものが多い。その結果面部全体の打出が誇張され派手になる。しかし両眼の刳りは丸く小さい。具象的な耳がつき、後ろへ張り出す。総体に鉄の重ねが薄い。要するに江戸期の総面は本来大名の高級な甲冑に附属させるために製作されたものであるから実用品ではなく床の間の飾りもの的性格が強い。従って甲冑師にとっては工芸技術の見せ場であったから凝った作品が多いが、史的感興を催させることは乏しい。解説:井伊達夫−『ふくいゆかりの名宝たち 里帰り文化財展』(平成27年10月)より

総面
鉄総面包(朝倉義景遺品)

鉄総面包(朝倉義景遺品)

この総面は現存古作総面の代表遺品で、解説は同時に古総面の特徴そのものの説明になる。まず、装着時の顔面防御部分、いわゆる被りが深い。顔の周縁部を深く覆うように一枚の鉄をめぐらせ、耳は初めからない。目の部分は上下の目蓋に従うように自然に大きく開けられ、打眉も鼻の打出も余計な誇張がない。全体に笑っているような余裕の表情であるが、これが総面の古いところの第一の鑑別点である。鼻下の髭は格別のことはないが、頰髭を植えているのがユニークである。しかし植髭は四段の垂と共に製作当初のものではない。このような室町末戦国にかけて製作された総面は現在数点の遺品をみるのみである。 外箱の表蓋裏に松雲院義景公の遺物として金森素玄より妙法院に伝来した旨の張紙と、朝倉義景所用の旨の元和七年二月記になる故実家伊勢貞景の鑑識語がある。金森素玄は信長に仕えた武将、金森長近である。越前攻めに加わり朝倉滅亡直後越前大野を宛行われた。妙法院は京都東山の妙法院と思われる。 解説:井伊達夫ー『ふくいゆかりの名宝たち 里帰り文化財展』(平成27年10月)より (調査寄託資料写真)

鉄漆塗総面

鉄漆塗総面

(調査寄託資料写真)

鉄錆地総面

鉄錆地総面

(調査寄託資料写真)

金剛力士面打出総面

金剛力士面打出総面

(調査寄託資料写真)

鉄錆地総面

鉄錆地総面

(調査寄託資料写真)

大鎧

赤韋威大鎧

赤韋威大鎧

尾州老職・大道寺家伝来 兜ー厳島神社一枚張厳星兜模作・江戸時代 その他は鉄大荒目札を以て江戸期に復古制作

紺匂威大鎧

紺匂威大鎧

鍋島家伝来 兜鉢ー南北朝時代 他ー江戸時代

黒韋肩白威大鎧

黒韋肩白威大鎧

兜・総覆輪阿古陀形筋兜−室町時代 胴・袖ー江戸時代

小桜威大鎧(島津家伝来)

小桜威大鎧(島津家伝来)

黒韋肩白威大鎧(国宝赤糸威大鎧模作 小野田光彦作)

黒韋肩白威大鎧(国宝赤糸威大鎧模作 小野田光彦作)

御嶽(みたけ)神社の畠山重忠所用と伝える赤糸威大鎧を人間国宝故小野田光彦が忠実に復元したものであるが、威毛は注文者の好みにより韋威となっている。

紅白逆沢瀉威大鎧

紅白逆沢瀉威大鎧

江戸復古作 某家蔵

大鎧

​胴丸

黒韋威胸白胴丸

黒韋威胸白胴丸

南北朝時代

黒韋威胴丸(朝倉家伝来)

黒韋威胴丸(朝倉家伝来)

室町時代 小堀鞆音旧蔵

黒韋縅胴丸古写真

黒韋縅胴丸古写真

朝倉家伝来胴丸、往時の姿の写真。失われた大袖などが確認できる。

花紺威胴丸(島津家伝来)

花紺威胴丸(島津家伝来)

金箔押朱日輪紋胴丸具足

金箔押朱日輪紋胴丸具足

戦国の本伊予札丸胴に銀総覆輪阿古陀形の筋兜が沿っている。胴中の日輪は力強い時代の好尚を示している。名号の前立など世上にあるものは後補がほとんどであるが、これは本歌である。 安永の頃、富士山麓の正寿院に奥高家宮原長門守より修理寄進された旨の記録がある。宮原氏は、武田勝頼の娘が嫁いだ武田氏の縁家で、兜や胴の要所には花菱紋、具足櫃には四菱紋がすえられている。 (「山縣昌景家と竹広火おんどり」ー平成23年7月13日発行 新城市設楽原歴史資料館より)

腹巻

黒韋威腹巻 皆具

黒韋威腹巻 皆具

室町時代 本小札を黒韋で威した腹巻である。小札は盛上部分が薄く平札に近い。元来は胴丸であったものをのちに腹巻きに改造したものである。兜は十六間片白の阿古陀筋兜で錣は本小札黒韋威である。袖は本小札赤黒韋威の大袖。袖の金具は鎌倉時代後期の大袖の金具を再興したもので、補作とはいえ極めてその金工技術は精緻である。近代の名工藤島三郎の作になる。 兜は室町時代(一部補修あり)、腹巻及び大袖は南北朝〜室町の作品である。鍬形の透し彫りが古風である。

紫裾濃威腹巻 皆具

紫裾濃威腹巻 皆具

腹巻・室町時代古作仕返 他各部江戸時代 (某展示会資料)

胴丸
腹巻

​変わり兜

雉子形兜(松平秀康・忠直・直政所用)

雉子形兜(松平秀康・忠直・直政所用)

桃山時代 変わり兜には雑多な種類があるが、実戦期の正真な遺品は殆ど存在しない。この雉子兜は意匠にも秀逸であるが、所用者が明確なことが特に貴重である。越前藩祖松平秀康の創意になるもので、忠直より直政に贈られた。直政はこれを着初と大坂冬の陣に用い、のち、功のあった家老村松氏に下賜、同家の宝器として伝えられた。 なお、未公開ながら近年この兜の面以下がおよそ30年ぶりに新発見された。同型の由緒を記した古式の櫃まで見つかり、一荷の形が整った。まさに奇跡としか言いようがない。

十王頭兜(伝徳川家康所用)

十王頭兜(伝徳川家康所用)

TV番組、嵐にしやがれに登場した名冑の一つ。

黒漆塗投頭巾兜

黒漆塗投頭巾兜

朱塗総髪形兜

朱塗総髪形兜

TV番組「美の壷」に登場した名冑。

投頭巾兜

投頭巾兜

烏帽子兜(伝加藤清正所用)

烏帽子兜(伝加藤清正所用)

伊予大洲藩祖加藤貞泰所用具足

伊予大洲藩祖加藤貞泰所用具足

変わり兜

(​以上、井伊達夫採集史料写真)

​関連資料

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