天正十年秋、信長の弔合戦に勝利した秀吉は旧信長支配光秀統制下にあった丹波の手入れをし、短時間の内におのが勢力下に収めました。その時、丹波の土豪で名家でもあった、川勝彦次郎に使用していた唐冠の兜と、秀吉の名前の上の一字「秀」の字を与えました(下写真)。秀吉所用の兜については伊達政宗拝領の具足に附す兜の他は確かなものがなく、所用時期がはっきりしたこの兜は戦国時代有力武将着用兜の典型として貴重です。
尚、この唐冠兜には眉庇上に双龍、腰巻に唐草、巾子に唐獅子牡丹がいずれも布目象嵌と糸象嵌によってあわらされた豪華精緻なもので、鮑の脇立が附属しています。この兜は桃山時代を少しさかのぼる時代好尚を明確に表しています。
秀吉が自分の名の一字を川勝彦次郎に与えたのは大変な優待行為で、いかに彦次郎が秀吉に信頼され好かれていたかを物語ります。この場合、「一字書出」というものを用語解説的にいえば、封建時代の主従関係の絆の強化が目的であったということになりますが、秀吉施与としては現存唯一の史料です。この外部調査資料については、秀吉が天正十年秋~冬にかけ丹波に入っていたという裏付をとるのが最大の要点でしたが、「兼見卿記」という日記によって事実が証明されました。
この発見は、10月15日にNHKはじめ各報道機関によって発表されました。
●この唐冠兜は来季「戦国」展に借用展示予定です。
(外部調査預託品)