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井伊美術館資料紹介

名物「鉄(くろがね)の鞍」

本多正純所用・毛利家伝来

 本来本多上野介正純が愛用していた朱鞍で、正純失脚後山口の毛利家の有となり、清水五郎左衛門が所管していました。桃山時代鞍打の名人井関の作品で、前輪と後輪に瀬田の唐橋の図柄が金銀蒔絵されています。当時東国から京に向かうには琵琶湖の水運が速いとされていましたが、それは比叡おろしの強風を受ける危険な航路でした。そのため連歌師宗長により、
  もののふの矢橋の舟は速くとも
  急がば回れ瀬田の長橋
の歌が詠まれ、今日の「急がば回れ」の語源となりました。人生の教訓、馬術の極意を表した意匠です。同時に、瀬田の唐橋を制することは京が間近くなったことを意味し、すなわち天下を制することにも繋がります。
 ちなみに「鉄之鞍」という号ですが、詳しい由来は分かりません。

 本多正純は本多正信の嫡男で、家康に重用され幕府第一の権勢を誇りました。下野国小山藩主ののち、同宇都宮藩主。講談「宇都宮釣り天井」でも有名な人物です。
 清水五郎左衛門は有名な備中高松城を死守し切腹した清水宗治の次男で美作守。実名清水景治。毛利家中由緒ある重臣でした。
(寄託調査品)

唐の頭(彦根井伊家伝来)

  家康に過ぎたるものがふたつある
    唐の頭(からのかしら)に本多平八
とうたわれ本多忠勝と共に天下に知られた唐の頭というのは、南アジアに生息するヤクの尾の毛です。いわゆる南蛮渡来の珍品で、当時大変高価なものでした。その頃、まだ三河の一大名にすぎなかった家康が贅沢にすぎるこの珍品を兜の装飾品に使わせていたことを、敵である武田の将小杉右近助が三方原の戦いのとき一言坂の上に立札をたて落首したことで天下に知られました。そのうたにはなかば讃辞、なかば揶揄が入っていますが、その頃家康の軍中七人の将が唐の頭を兜になびかせていたとのことです。
 掲示の唐の頭は彦根井伊家に伝来した、尾部の軟骨がついたままの未使用原躰品です。勿論現存最古の「使用前」唐の頭です。

※うたは一般に「ふたつあり」となっているようですが、江戸の関係古書記載の方を採りました。こちらは破格ですが、戦国田野の雑味があるやに思われます。

(館蔵品)

織田信長朱印状

黒田勘兵衛孝高宛

宛名の「小寺」は御着城主政職の家臣・小寺勘兵衛(黒田勘兵衛-孝高-)と推定されます。置塩(赤松則房)、龍野(赤松広貞)に触れ、置塩の人数、付城についての指示を与えています。「佐久間」は信長の武将で、この時石山本願寺攻めを担当していた信盛です。荒木村重を主力とする軍勢が播磨に入るのは天正三年十月。九月五日付のこの書状はそれに先立って赤松に対する指示が出されたもので、当時の差し迫った様子がうかがえる資料です。往古の水害で朱印など明瞭でない箇所もありますが、正真であるのは間違いありません。勘兵衛宛の書状は特に貴重です。

織田信長黒印状

徳川家康宛

本文書は家康(三河守-永禄九年より)が高天神城を攻略(天正九年三月落城)し馬伏塚の要害へ陣替した天正八年十月頃、家康より贈られた鷹野の鶴に対する信長の返状。旭日昇天の勢いにある信長に対し絶対服従を強いられていた家康苦難の時代。信長の家康宛文書は極めて少く、既出文書は四点(「織田信長文書の研究」)で本書を含めて五点のみで、この時代の家康の文書も寺社宛のものが殆どです。本書状は保存状態が惜しまれますが、両者の個人的交渉が窺われる貴重な新発見史料。尚文中の西尾は信長の臣・小左衛門(隠岐守)吉次のこと。高天神城を家康が攻撃したこの時期、監察として派遣されています。
当時家康の側で召し使われていた万千代直政が家康より貰い受け、井伊嫡家に伝えられました。本史料は数年前に発見されていましたが、新しい事実が判明しましたので所蔵者の希望により再掲しました。

水戸斉昭自製の筝

徳川斉昭が高須藩主松平義建に贈った自製の筝。

筝の裏には斉昭自製の歌が高蒔絵で施され、内部には朱で斉昭の自筆による製作場所、年号、花押などが彫られています。箱には義建に贈った旨が書かれています。

年号は弘化二年とあり、そのころの斉昭は謹慎中の身でした。義建は斉昭の姉を正室にもち、斉昭とは同じ年齢でもありました。その頃に謹慎中の斉昭を義建が励ますというような行為があり、筝はそれに対する返礼であったのかもしれません。大名が自作の楽器を贈るということは大変珍しく、二人の親しい間柄が感じられます。

斉昭は和楽、特に筝が堪能で、江川太郎左衛門に筝を弾かせたという逸話があります。

幕末の開鎖の論議が沸騰する一方の立役者がこのような深い趣味を持っていたことをうかがわせる貴重な史料です。

 石田三成の居城佐和山の城容を彦根側から描いた珍しく貴重な屏風が確認されました。旧彦根藩士の子孫であった大久保章彦(当時埋木舎主人)が井伊家の家扶をしていた時代の名刺が貼付されているので、井伊家の旧蔵品であったと推定されます。図中には彦根藩士で『彦嶺美談』の著者でもある佐藤貞寄の解説識語(文政十年)があります。

石田三成  佐和山城図屏風

本丸
落城後井伊家によって石垣が全て撤去され、山頂はさらに削り落とされました。本来、城下から見上げれば山容は高く尖って聳えており、その様がこの図からうかがえます

百間橋の状況

かつて城の西方・松原の湖岸から現在の清涼寺の前付近までかかっていた橋で、伝説では長さが三百間あったといわれています

島左近屋敷付近

物見櫓のようなものが見えています。

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