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平成24年度 井伊美術館特別展

人間

井伊直弼

生涯の実像

いま はじめてあかされる開国の祖の真実

開催期間: 平成24年2月15日〜同11月15日

いま、なぜ井伊直弼なのか。

 

 いま、なぜ井伊直弼なのか。時代は大変動期に突入しました。時代そのものの様相は様々な点で当時とは異なりますが、いまわれらが直面している状況と幕末動乱期とは極めて相似た雰囲気を帯びてきています。第二の維新幕開けの胎動は既にはじまり、我々は大動乱期を迎えることになりそうです。激動波瀾を生死した直弼とその時代を考えることこそ現在の我々を考えることになろうと思います。

 昨年の展覧会では「戦国」をとりあげ、昔にくらべるに当今の無気力と閉塞感―泰平の延長気分―は、「時代サマ」を退屈させるとして、わが国が早晩迎えることになるであろう危機を戦国になぞらえ語りました。これはある意味、予言的に気の毒な悲劇の現前として当ってしまったような気がしますが、当らなくてよい予感が不幸にも当らずともよいところに当ったような気配で、今更ながら切実な無常を感じると共に、不幸に便乗する俗衆の偽善の多いのにもあきれます。問題はそこで終ってはいません。始まりです。

 まだこれから同様の悲愴が日本を襲うのではないかという不安にかられます。明日は実際、我身の番かも知れません。そういう予知不能の世界に私達は生きているのです。もはや泰平の時代は終焉しました。いかに生きるか、そして死ぬか、一寸真剣に考えこまざるを得ません。かく言う私は70歳に足を突っ込んだ老人ですが、決して老人とは思っていない、楽観主義の男です。

併催 源平の精粋 大鎧

今年のNHK大河ドラマ「平清盛」にちなみ、日本甲冑の典型とされる大鎧を種々展示致します。

​>>こちらから<<

開催のことば
                       

 井伊直弼のこれ迄の評価はいってみれば極端です。「偉人」か「国賊」か、「先見性に富んだ決断の人」か「単なる保守反動家」か。そのレッテルはおよそ単純、単色であるといった方が近い。直弼について語る場合いろいろ説明や、つけたりを要するけれども、まずは天才でも偉人でもない「普通の人間」であったというところに、人物観照の基軸をおく必要があるのではないでしょうか。かれの生涯と行蔵を分析検討するのはそれからのことのようです。
 これ迄直弼の資料や伝記類は一通りみてきたつもりですが、おおむね史料の羅列はふんだんにあっても、人間が立ち上がってこないものが多いのはなぜでしょう。直弼自身の体臭を感じるものがない。単なる史料集とは異る伝記類にはその人物の息遣いが出てこないといけないと思うのです。いかがなものか。このこと容易でないことは承知の上でいっています。
 直弼を主人公にして有名になった小説に舟橋聖一の『花の生涯』があります。物語は直弼の悲劇の人生を桜花の散るが如くに描くことによって、ひとつの仮想の花を咲かせました。しかしそこには真の花はない。これは小説だから当然でもありましょうが―しかし特別にすぐれた小説は史実よりもより一層その人間をきわだたせ明晰に写し出す。虚構が真実を超える場合もあることを忘れてはいけないと思います―、直弼の生涯の実像をあたかもそのごとくに描いたものは小説は勿論史伝類にもないと思えるのです。
 左様なことをいいながらかくいう私も、直弼を考えて数十年もたつのに伝記には一歩も踏み出せないでいます。直弼についての書きものは過去にいくらかものしてはいるものの、片々寥々たるものです。そんな者が一人前の口舌を弄す資格はない。内心の正直なところはそうであり、また同時に忸怩たる思い大であります。
 日まさに西山に没せんとして、日々徒らに焦るのみのこの頃、せめて聊かでも直弼の実像を知りたい。知ってもらいたい。また、少しでもなまみの直弼について考えてみたい。従来ともすれば極端に偉人化あるいは悪人視された直弼像の本格的見直しの契機、考え直す動機が萌せばいいという位の気持ちが正直なところです。この累年の思いをささやかながら、とりあえず小展を以て心中の冀願、寸分を果しておきたいと思います。ここでは虎を描こうと思ってはいません。結果が猫に類しても構わない。おのれのつとめの少しでも果せればいいという存念です。
 直弼は日米条約を無勅許で強行し、反対派を弾圧、大獄とよばれる大量の血を流しました。前者については徳川の屋台骨が緩み、内外多端に際し幕政のトップにあるものとして不逞の徒に鉄鎚を下した。その行為は正義の実行であると信じたかったと思います。後者については決して直弼の本意ではない。政治的処置の道筋に厳然とした信念が、急流中の巖石の如き不動の覚悟が、絶対的に懐かれていたかとなるとむずかしいところです。条約締結の時、近臣に手ぬかりを指摘され、責任の重大さにおろおろし、この上は大老を辞任せねばというのを側近に叱咤されて立ち直る―こんな姿は従前の歴史では判明していなかった事実であり、実の処事情あって公にしなかった、否できなかったことです。そのディテールは長くなるので端折りますが、要するに本当のところは人一倍責任感の強い正義の人でした。それだけに小心翼々で、大胆不敵、剛毅からは程遠い気性、開国も外圧に対するやむ事なき処置であり、真の肚裏は富国強兵ののち、再び祖法に国を戻すというのが実現の可能性迄は詮索しない上での本音でした。当時、反対派である越前の橋本左内あたりは朝鮮、満州、モンゴルを植民地化し、アメリカあたりにも領土をもたねば日本の独立は覚束ないと云っている時代です。攘夷の実行不可能を体感しつつも攘夷派であり、開明進取の人ではありませんでした。
 若い時には恋に悩み、養子試験には落ち、国学や好きな芸道には一途ながら身の短才を歎き、一族富裕の徒輩を羨み、かつ、嘲笑し、常に冷え症と頭痛その他の痼疾を抱えて、貧乏暮らしを喞つ。何やかや嫉妬し立腹し、世外にいて身静かならんと欲せども、好きな柳のようにしなやかには順応できずイライラし、もうどうしようもない―という境遇でした。運命はしかしそんな直弼に想像もつかない逆転の栄光の座を用意していたのです。
実に天なり、命なりだと思われますが、殆ど古衣ばかり着て豆腐一丁の値段まで通じているような人物が大藩の主となると、公私における反動が大変どころでないことは容易に想像されます。普通の人でなくなったのです。あとは格式と先例と、すぐれて有能だが同時に実に有害な側近に取り囲まれて、「大老」という大看板を背負わされのっぴきならぬ舞台に立たされてしまうことになってゆく。直弼は本音では茶や歌や土をひねって生きて行きたかったにちがいありません。政治の泥沼に踏みこんで喘いでいる直弼の姿が夜半の夢にあらわれたりするのは辛いものです。
 大略して直弼は芸術家としてはともかく一流でした。しかし政治家としては純粋朴直にすぎた。まさかおのれの首が人にとられるとは―。これもまた天命といえばそれまででしょうが、その直前の心理は恐怖と戦慄という言葉ではあらわせられないものであった筈です。直弼もまた人の子であり、ふつうの人間でした。根本は我々と変らない普通の人間であったと、まずはそういうところからはじめたいと思います。
 以上本展開催のことばとしては不確かで不十分なことばですがスペースの関係もあるのでこの辺で切り上げます。蛇足ながら識られた古歌を藉(か)りてこの頃の心懐を少々。

   わきて見む 老木は花もあはれなり
     今いくたびか 春にあふべき

平成24年1月吉日
井伊美術館々主

井伊達夫

特別展

 「人間 井伊直弼-生涯の実像―」展によせて

京都女子大学文学部教授
(元彦根城博物館学芸員)
母利 美和

 

 このたび、京都井伊美術館において「人間 井伊直弼-生涯の実像」と題する待望の展覧会が開催される運びとなり、お祝い申し上げます。

 以前、私は、井伊達夫氏が彦根藩に関する史料や歴史研究に歩んでこられた道を著された『歴程集』(平成十八年(二〇〇六年)刊行)に、「井伊達夫氏と彦根藩関係文書」という一文を寄稿させていただき、氏との出会いや収集された古文書の意義を紹介させていただいたが、その中で、次のような一節を記していた。

  (前略)私の歴史研究は緒に就いたばかりであり、(井伊達夫)氏の懐の深さには、まだまだ及びもつかない。これからも私自身、直弼や彦根藩の研究を続けていくことになるが、いつかは氏の軍事・兵法に精通した観点からの直弼論を読んでみたいと願っている。

  いよいよ時節到来の思いがする。

  氏のこれまでの歴史研究は、昭和五十三年(一九七八)刊行の『井伊軍志』をはじめ、井伊家草創期の歴史・軍制が中心であり、また武器・武具、とりわけ甲冑研究は夙に知られている。しかし、そうした歴史研究への最初の動機が「直弼探求」にあったことが『井伊軍志』の「あとがき」に記されており、『井伊軍志』刊行の三年前、昭和五十年に、直弼の側役兼公用人宇津木六之丞が中心となり編纂した『彦根藩公用方秘録』(木俣家本)を出版され、「直弼研究」への展望を示されたことからも窺える。『歴程集』では、これまでの研究を振り返られ、「俗事多忙の塵中に埋没、「井伊直弼ノート」も同時に大切に保存されたまま今も塵埃にまみれたまま」であったことを記されているが、今回の展示によりその一端が公開されることは、直弼再認識の好機と思われる。 

 

(平成24年3月 『井伊達夫氏と「井伊直弼」』より抄録)

主要展示品

新発見
井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)

名もたかき
今宵の月は
みちながら君しをらねハ
事かけて見ゆ

当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のものです。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われます(天保十三年冬には側室静江ができます)。まだ完全に別れきらない状況で、習いごとの費用の面倒もみていたようですが、恋歌を贈りどうも淋しくてはじまらないと嘆いています。

持病の頭痛がひどく、文章中の二字は一応「困苦」と読みましたが「田苦(臀苦・・・痔の隠語)」と解釈した方が文章の前後からは自然です。直弼は痔にも往生していました。茶席に座ることも大変苦痛だったようです。

いろいろ持病に苦しみながらも、女だから慎んで生きるように心配するなど大変気を利かせ、さらには名月によせて彼女を慕う歌の中に「たか」の名を読みこんでいます。なお未練十分の直弼の心情が切々と伝わる書状です。

かなり周到に準備された内容ですが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆です。若い頃の独特の「痩せた」文字です。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していきます。

京都新聞社会面より
(平成24年2月12日)

源平の精粋 大鎧

源平の精粋 大鎧

今年のNHK大河ドラマ「平清盛」にちなみ、日本甲冑の典型とされる大鎧を種々展示致します。

 大鎧という、いかにも豪壮で華やかな甲冑が登場したのはごくおおまかにいって平安時代とされています。その美の完成には大分の時間を費やした筈ですが、甲冑の代表形式というものは、もうこの時代既に完成されてしまっているのだからおそろしい。
 後続してあらわれる数々の甲冑形態は全てもうつけ足りであるといっていい程、用に於いても美に於いても完璧です。馬上専用に造られてあるから、こせこせしない大らかなゆとりがあります。栴檀鳩尾両板のアンシメトリーも素晴らしい不均衡の美で、このアンバランスは実用に素直に従った不純物のない精神のあらわれです。これほど正直な美の典型は他にありません。胴の周囲を全て一囲せず、四方の内の一面を別附けする合理的な不整合。楯の代りになる大袖、そしてシコロの左右を出張らして大きく返す顔面防禦の太々しさ。これらには何ものにもとらわれない原始の防禦設備の専一的な勁直を感じさせます。

  ここに悪源太をおき鎮西の八郎をみて、目を閉じると瞼の裏はるか乱れ雁と桜花芬々に見えかくれする八幡太郎の姿が現前します。遙か平安・鎌倉の昔の雄叫びの一人になりたい、後世ひとかどのもののふたちがひとしなみに懐いた熱血の夢は形を変えて今も生きている筈です。

小野田光彦作 御嶽神社大鎧復原

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