榊原康政書状
彦根築城に係る榊原康政の木俣守勝宛書状。家康が伏見から江戸へ下る途次、彦根に立ち寄り築城の様子をみて満足した旨伝える内容で、慶長十年頃のものと推定されます。榊原康政と井伊直政は晩年、特に親実で、文面にも直政亡き後の井伊家の行く末を親身になって守ってやろうという康政の行為が現れています。
(館蔵品)
彦根藩天誅組征伐図
文久3年、天誅組征伐の為出兵した井伊勢の活動を描いたもの。
井伊隊は貫名筑後亮寿(井伊直中六男井伊中顕の男)を藩主井伊直憲の名代として総大将に任じ、三番手まで出軍させ天誅組を討滅しました。
これはその時の戦いの様子を描いたものですが、元亀天正そのままの赤鎧を着用した彦根藩兵が貫名氏の馬印を中心に奮闘。井伊家として多少とも武名をあげることができた最後の戦闘でした。(個人蔵)
■達磨画讃
 
すみにごるあとこそみえね谷河の
その水上にわけのほりては
井伊直弼自画讃
井伊直弼の筆になる書画に用いられる号名で最も尊重されるものは「」です。「柳王舎」これは「やぎわのや」と読みますが、これの所用例は残存遺筆中に最も少ないものです。直弼の代表的な自画讃二例を紹介します。
                                                     (共に個人蔵)
■二重円相図讃
 
万法帰一
万法
無帰一

柳王舎主人

彦根藩第2代藩主井伊右近太夫直継(のち直勝、安中藩初代―与板藩井伊家祖)の貴重な知行宛行状です。宛名の三浦氏はのち井伊家の門閥重臣となります。(井伊家蔵)

                                                 
井伊直継宛行状
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天正11年、徳川に帰属した旧今川家の臣従三浦与三郎元貞に発給された家康の朱印状。筆者は奉行人の井伊直政です。(井伊家蔵)                             
                                                 
徳川家康朱印状
天正10年夏、家康は甲州若神子において北条氏政の軍と戦いました。秋になり講和の議がおこり、井伊直政が正使となって北条方に赴き、和議を締結。大きな使命を果たした直政は時に22才。本文書は直政が戎衣の内に秘めた講和の条件を記した重要なメモで、直政自筆の政治文書としては最も時代的に古いものです。(『大日本史料』『井伊直政歴史関係文書』『井伊軍志』等所収)(井伊家蔵)
井伊直政自筆条書
彦根井伊氏最古の法令。郷方奉行大久保定秀が書き、中野、西郷、鈴木の3人の年寄(家老)が加判しています。従来藩の古記録のみにあり、本書は湮滅したとされていました。井伊直政による最古の仕置状です。(慶長六年十一月十五日付)(井伊家蔵)
                  
                                                 
井伊直政 佐和山法度 (諸給方仕置状)
大坂夏の陣の戦さの法令。井伊家の古記録に記されてあり、古来から一部識者に知られたものですが、原本は湮滅したものとされていました。井伊軍の軍師である岡本半介宣就の自筆原本で大変貴重なものです。(元和元年四月六日付)(井伊家蔵)


                                                 
大坂夏の陣 陣取之法度
彦根井伊氏第5代の藩主直興は早くに父直時と死に別れ、淋しい幼少期を過ごしました。その幼く心細い直興の歳月を終始温かい目で見守り、陰に陽にバックアップし続けたのが、城代家老木俣守長でした。直興は生涯この重臣木俣守長を徳とし、心の父として慕い続けました。
直興が幼い不遇の頃、守長から「これはめでたい木です。
あなたにも必ず将来めでたいことがおきます様、この木を大切に育てて下さい」と「むべ」の若木を贈られました。果して直興は彦根の藩主となり、幕府の大老ともなって大立身。その間に「むべ」も大きな木に育ちました。本書は還暦になった直興がこの間のいきさつを自身で記して今は隠居している守長(良閑)に贈ったものです。直興の人柄、家臣との深い交流が如実にしのばれる文書です。(井伊家蔵)


                                                 
井伊直興述懐


画讃(印)


井伊直弼絶筆
開国の元勲井伊直弼が桜田に倒れる数日前に書いた最後の自筆長文書状。本書は安政七年(万延元年)二月二十五日に書かれました。内容は国家老三浦内膳正猷(まさみち)宛の江戸城本丸普請に係る長文の指示文書で、内容の濃いものです。直弼の手紙は極めて用意周到綿密なのが通例ですが、本状は珍しく不用意かつ乱文で、直弼文書中最難読の一つです。青色の特別な料紙が用いられています。

尚、三浦内膳の実名を一部史書で「実好(さねよし)」などと誤って伝えていますが、、系譜には記されておらず、「正猷」が正しいのです。

写真は冒頭部分(井伊家蔵)


                                                 

(館蔵品)
上泉秀胤は上泉信綱の二人目の同名の養子(先の秀胤は戦死)。新陰流の承継者、当代一流の軍者岡本宣就は、剣の達人でもありました。尚秀胤の子権右衛門義郷は一時井伊家に仕え長野無楽斉に抜刀居合の術を学んでいます。
上泉秀胤印可状
     慶長六年九月晦日 岡本半介宣就宛


(井伊美術館資料管理部)
彦根藩歴代の数え方について

従来の彦根市史関係の叙述ではも井伊家歴代の数え方をまちがっています。佐和山に封ぜられた井伊直政を初代とし、13年もの間藩主の任にあった直継を二代とせず、その間の年月を無視して実は三代である直孝を二代にしています。つまり江戸時代の御用学者によって作られた井伊家系図による二代直継無視をそのまま現代も続けているわけです。在位数十日の直恒や直≠ェ代数に含まれているにもかかわらず直継が代数から除外されているのは意識的な作為としか考えられません。これは実証を無視した歴史学で、現在の歴史学としては明らかに間違いです。客観的な歴史認識に基づいて代々の改正をするべきです。当館長は『井伊軍志』(平成元年・彦根藩史料研究普及会刊)等で早くからこのことを指摘し、近年一部では改められるようになりましたが、今尚旧来の表記を採っている関係者が少なくありません。速やかに全面的改正がなされるべきです。
当サイトではあく迄正しい井伊家代数を採用して記述していますので、従来の代数とは異った表現になりますが間違いではありません。御注意下さい。

※掲載順序は年代順ではありません。
このコーナーでは、与板・彦根両井伊家にとって特別に重要と考えられる古文書や古記録史料類の紹介を致します。
井伊家関係重要史料文書
(館蔵品)
奥平久嘉は奥山久賀斉ともいい、奥山流を創始、家康の剣の師にもなりました。岡本宣就と家康は同門の相弟子ということになります。宣就は新陰流も奥山流も印可をうけた兵法の達人でしたが、いわゆる芸者を嫌う家風の井伊家の重臣であったため、流儀の継承者としての名は出てきません。
奥平久嘉印可状
     慶長六年十一月十三日、岡本半介宣就宛


与板藩主 井伊直安より
      二百両上納に対する下賜品
幕末長州征伐出軍の命令はわれらの先祖・与板井伊家へも下され、与板藩兵は彦根藩軍と共に出征することになりました。それに先立ち、藩は領内有力町民に上納金を半ば強制的に申しつけました。有力町衆の一人中島忠右衛門はとりあえず二百両上納。結果「家来格」に取り立てられましたが、のちに差しつかえがある旨をもって家来格を取り上げられ、代りに狩野周信の二幅対の掛物を拝領しました。御家伝来品といえども、周信の対の画幅が二百両に代ってしまうとは、いかにインフレの幕末でも気の毒なはなし。この掛物はその顛末を記した文書と共に再び発見されましたが、中島忠右衛門にとっては怨みの画幅といえるものかも知れません。幕末騒乱の一端を知る好資料です。
                                                                 (個人蔵)

祖父直弼、孫直忠、 埋木舎の柳をめぐる謡草
井伊直弼は部屋住時代にすごした埋木舎に自ら柳を手植し、大切に育てました。直弼が柳木を最も愛賞したことはその別号を「柳王舎(やなぎわのや)」としたことでも知られます。
直弼がその柳を根分けして新しい人に与えたときに詠んだのが、この歌です。


 おのれかいとめつる 柳 云々
 
いとせめて 恋しきときも なくさめよ
むすふちきりの かかる柳を  無根水(直弼)



この埋木舎の柳は直弼没後も無事存在し、明治になってから直孫の直忠が訪ねて観柳し、詠んだ歌。


庭前柳
 
我いまた うまれぬさきに おちかうえし
庭の柳はいろそひにけり   直忠
 
 
直弼の歌は果たして誰に与えたのか。愛人の村山たかか、はたまた、長野主膳か。いろいろ想像できます。
直忠の方は当時埋木舎を賜って偲んでいた大久保家に与えたものと推定されます。
いずれにせよ埋木舎の柳をめぐる祖父直弼と孫直忠の運命的な詠草だと思われます。
直忠
直弼
(個人蔵)