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研究者の方々へ

 

今回の史料発見にともなって今川や井伊谷の研究がますます進展してゆくことを願っています。単行本・雑誌等に掲載希望の方は史料使用の許可申請を行ってください。メール又はFAXにて御所属・御芳名・申請趣旨を明記の上お申し込みください。

(無断転載・転用防止のため)

新出史料の要点

​2017年4月記者会見内容ご報告

「直虎駿河くずれの時…討死の由」

新史料『河手家系譜』直虎の終焉があきらかに

4月6日に行われた記者会見の様子

~井伊直政時代の筆頭老臣河手家系譜の語るもの~

 井伊次郎直虎は今川氏真によって井伊谷に派遣されたが、若かったので今川の武将で井伊家に好意的であった新野左馬助のサポートを得て井伊谷の統治に当っていた――という新史料を昨年(28.12.15)発表し大きな反響を得ました。以来、史家の間では、やはり男性だったのかというのが常識になったようですが、典型的な二次史料で史料的に信憑性の低い『井伊家伝記』を殆ど唯一の真史料の如くに扱ってきた史家はいまだに検証なき直虎女説をくり返し、歴史は好きだが余り詳しくない人々を対象に、講演、広報されているようです。それはそれで結構なことではありますが、そこに前述した歴史学的な検討考証は一切ありません。その時代の空気を生きた、また井伊直政の咳唾に接した人々の記録(たとえば井伊氏族系図伝記―井伊直孝と木俣守安の請いをうけ岡本宣就が記述した自筆の系図)などは実際的にはひとつも使われていないのです。

 歴史は過去の様々なことがらを、その時代の変化に対応して見直し考彰してゆくべきものです。「温故知新」は虚構性の強い伝説物語に拠って私説を構え強引に押しつけるものではありません。そして敬すべき故主人の後世を慮ったまじめな記録を、創作話などと貶めることは、学者として最も慎むべき言説であると思います。

 「――それでも地球はまわっている」と嘯いたとされる古き賢者のごとく、もうこのことは放下するしかないと考えていた矢先、私蔵の史料のなかに井伊主水佑のことが書いてある冊子がたしかどこかにあったな――と思い出しました。

 井伊主水佑とは、例の史家たちが、残存する文書史料から名前を明確にあげ、その史的行動を推定的に記しながら、正体不明であるといって「名義使用」のみをしている人物で、かの今川徳政を井伊谷に於て実行しなかった「実質的井伊谷の支配者―陰の仕掛人」です。その人物のことを記した記録を埃にまみれて先日漸く捜し出しました。

 ところがそこに、以前は完全に意識外であった「直虎」に関わる重要な記述が見出されたのです。古書の堆積の中から埃にまみれて再発掘したのは『河手家系譜』です。

 この河手家は井伊直政時代、第一の重臣(当時、昨年発表史料の筆者木俣氏の序列は第三位)で、主人公の息子は直政の姉を妻にした井伊家とは格別の由緒を誇る古名家です。その河手家の系譜の中でも、軍功など古い時代の記述が最も詳しく、門外不出とされてきた最重要の本系譜だったのです(後に再興宗家河手主水家の有となる)。この中の記述に井伊次郎直虎と次郎法師、そして、河手主水佑(井伊主水佑)の関係が明確に記されていたのです。ほんとうに驚きました。原本を実見した母利美和氏(京都女子大学教授)は、この重要部分の書き継ぎは幕末の河手弥一郎良寛によるものだと審定し、これはやはり記者会見で公にするべきだと背中を押されました。これが今回新史料公表に至る経緯です。今回の新事実の公表のもとは、半世紀以上井伊家の歴史と武具の研究に携わってきた私の記憶の財産、おぼろげな過去の古史料の頁の残影が齎してくれたもので、ある意味天啓のように思っています。戦国末期、井伊谷における河手氏の行動にまつわる人々、そして青年武将直虎の顛末を御紹介したいと思います。

井伊 達夫(H29.3.24)

念のため改めて同じようなことを・・・

新史料『河手家系譜』発見に因んで

 今回また井伊家重臣家の家譜から井伊直虎に係る新しい記録が発見されました。井伊主水佑に係る古い不慥かなある記憶にはじまった発見です。このタイミングもまた偶然、まさに時節因縁によるものです。発表の経緯は既に発表の通りです。ここで改めて私の従前からの考えを言っておきます。

 

 ①NHKさんとは井伊彦根時代よりの古い交誼があり、現在もヒストリア他いろいろな番組に協力しています。この姿勢は何等変ることはありません。むしろ、史学的観点から現大河ドラマの創造の面白さに注目があつまることも、いいことであると思います。

 

 ②大河ドラマはあく迄ドラマ。虚構であり、史料発見とは係りのない世界のこと、楽しいフィクションの世界は大きくひろがるべきです。

 

 ③つまり、ドラマはドラマであるが研究者としての歴史事実はまた別のところにある。「歴史」はあくまで「歴史」でなければなりません。その点に於て次郎法師尼を井伊直虎同人としてしまった近年の史家の記述はまことに残念といわなければなりません。なぜなら、そこには史料的根拠も史的検証も存在しないからです。そしてただの思いこみとしか考えられないことが「専門史家」の言説であるゆえに恰も事実のようになってそのまま罷り通っているという現実です。史実というものをまっとうに研究解釈するレベルの問題ではありません。ただこの上は「直虎」をごり押しでもいいともかく女性にしておきたい、しておかねばならない――という一事だけがあるのでしょう。関係社寺の「次郎法師は直虎のことである。次郎法師は女だった。だから直虎も女性である」というような宣言もまた甚だしく幼稚です。何等史実に拠るものではないのです。その拠るところの核としている史料は「信憑性」に問題がある「井伊家伝記」と同じく論者(後述野田氏)によって史料的価値の低いと審定された寺伝書記類―「お寺の伝記」という狭い領域に於て有用化されてきた書き物たちである。作為と誤伝による史料の信憑性の限界が指摘されている『井伊家伝記』(彦根城博物館研究紀要2016(第26号)野田浩子氏論文「「井伊家伝記」の史料的性格」)にさえ直虎は全く登場しない。次郎法師=直虎は平成になってからの附会の説です。歴史を愛しこれを研究する人は創作的な事実のすりかえに心しなければなりません。

 

 今後も引き続いて当HP上で「井伊直虎」論をのべ、あわせて従来通り井伊家に限らない歴史と武具の研究を続けてゆきたいと思います。「井伊直弼史記―若き日の実像」―遅れていますが、あと一息というところです。御期待下さい。

​(29.4.18)

研究者の方々へ

 

今回の史料発見にともなって今川や井伊谷の研究がますます進展してゆくことを願っています。単行本・雑誌等に掲載希望の方は史料使用の許可申請を行ってください。メール又はFAXにて御所属・御芳名・申請趣旨を明記の上お申し込みください。

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新出史料の重要性

​新出史料の重要性

当日立会人 母利美和(京都女子大学文学部教授)のコメント

   「井伊直虎男性説を決定的にする新史料発見」

 

  この度井伊達夫氏によってあらたに発見され、私が原本を確認した「河手家系譜」は、井伊家の一門で重臣であった河手主水良貞(維新後の名は武節貫治)旧蔵で、元は一族河手藤兵衛家の史料とのことです。河手家の先祖や他藩の同族が記した「一以庵主古記」や「良恭書紀」など当時新たに収集した家の旧記類を引用し、河手家の先祖景隆が「井伊主水佑」を称して「井ノ直虎(次郎也)」が幼弱であったため補佐したことや、景隆が永禄7年(1564)頃に「井伊次郎」に属し、この「次郎」が「御家(井伊家)」の者ではなく「今川之物也」であり、さらに景隆が「次郎法師ヲ後見」していたことなどが記されています。

平素、収蔵量の多い井伊氏の史料からは何が発見されるかわからないと申してきましたがこのたびの史料からは、

① 今川方から井伊家におくり込まれた「井伊次郎」が「直虎」と同一人物であることが明記されており

②「次郎法師」と「直虎」が別人であり

③ これによって「直虎」が男性であることが決定的になると考えられます。

今なお、井伊直虎女性説を宣布したり信じたりする人が多い中にあって本史料の発見はやはり公にするべきだと考え、発見者井伊達夫氏に対し記者発表されるべきですと奨めました

 

公表前に新史料原本を確認した専門家

渡辺恒一氏(彦根城博物館学芸史料課長)の感想(要約)

 

 家譜家系の再確認は藩祖井伊直政250回忌に関わるものかも知れません。記されている何もかもがはじめて知るものばかりでその新鮮さに驚きました。このような新しい史料はどんどん発表していただくべきだと思います従来の女性説はやはりムリがあった。ちがったのだという率直なUターンもありだと思いますが

(氏は3月23日、当館の連絡をうけ来館され、新史料を親しく丁寧にみられました)

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